私の発見

 私<達>という表記を見るたびに、どうしてこんな書き方をするのだろうと疑問に思いながらずっと放置していた。

 シャワーを浴びていたら突然わかったのでメモしておく。


 これはつまり認識論だ。

 私たちの身体は、感覚器官からの信号を通じて外界と接触している。感覚信号は脳内で統合され、そこに「認知」が発生するわけだ。そしてこの認知あるいは認識が、「正当」であるかどうか、さらには外在する(ように感じられる)他者と「一致」しているかどうかは検証することができない。検証作業のプロセスや結果もまた、認識のフィルターを通す以外のやり方では認識することができないからだ。ここに、古今の哲学者たちが苦心してきた「存在証明」の要請が生まれる。


 だが、証明はいまだなされていない。おそらくは永久に不可能である。

 そこで、証明されていないことを前提に物語ることを己に課した人間は、私<達>という語法を用いることになる。

 私たちは常に外在する他者と接触している。接触を通して、私たちの内部には「人間像」、「他者像」、「他者群像」といったものが形成されていく。しかしこれらの像が実在の他者と決定的に乖離している可能性を哲学者たちは留保する。その時、自らが物語る宛先としての他者もまた、内在する他者群像であることを否定できない。

 つまり、作者は自らの一部である読者「像」に向けて、読者「像」と共に語る以外の語り口を持たない、という事になる。

 こうして、知識基盤も生活状況も主義も思想も違う他人に向けて、「私たち」と語ることは可能になる。

 私<達>とは、認識論的独我論を包含せざるを得ない状況を、読者と共有することを志向するとき選択される語法である、と言うことができる。


 まったく、回りくどいことを考えてしまった。


 しかも、書きながらますます考えてしまった。(ので書き足しておく。)


 これを「ペルソナ」によって論じることも可能である。

 ペルソナとは人格的仮面である。私たちはTPOに応じてペルソナを付け替える。ペットの前で、赤ん坊の前で、幼児の前で、年少者の前で、同年代者の前で、年長者の前で、老人の前で、病人の前で、死者の前で、祭司の前で、御神体の前で、後輩の前で、先輩の前で、部下の前で、同期の前で、上司の前で、ご近所さんの前で、田舎ものの前で、都会人の前で、異邦人の前で、師の前で、弟子の前で、教授の前で、生徒の前で、敵の前で、味方の前で、店員の前で、客の前で。意図するとしないとに関わらず、私たちは言葉遣いを変え、声音を変え、挙措動作を変え、身振りを変え、作法を変える。

 それらの仮面は一繋がりではない。

 私たちが場面場面で最適な振る舞いを希求するとき、私たちはかつて経験した/いま体験しつつあるシーンの中から、もっとも同席者たちによって好意的に承認される振る舞いを、もしくは自分自身にとって美的であるような振る舞いをコピーする。(自己認識にもっとも合致する対象者の振る舞い???うわ、これは……)ある場所でコピーしたその対象と、あらゆる状況を共にすることはできない。もし共にすることが可能であったとしても、その対象自身がコピーしてきた経験的蓄積の中には、必ずコピー対象が「千切れている」事例が存在する。

 それゆえに、私たちは必ず複数のコピー元を内在させ、それらを随時取り出すことで自らの振る舞いを決定している。選択された振る舞いを繰り返している。だから誰もおらず見たこともない場面で「どうしていいかわからない」。

 私たちは常にペルソナに代表させるし、ペルソナに代表されない「わたし」は存在しない。それを「演技」と呼ぼうと「キャラ」と呼ぼうと、ペルソナを自分自身に「本来無関係なもの」として代表させることはできない。代表した以上それは「わたし」である。代表したペルソナの連なりこそが「わたし」である。


 「わたし」はペルソナの集合(Personality)を持つ。


 「わたし」はペルソナを通じて表出する。


 「わたし」は常に、「わたし」を名乗るものたちの集団として機能する。


 私<達>という表記は、こうして、極めて合理的な了解を得る。