出生前診断をめぐるある訴訟について

出生前診断で異常なしの報告を受けた胎児がダウン症を持って生まれ、三ヶ月で早世。誤診した医師への夫妻の訴えを函館地裁が認めて1000万円の賠償を命じる判決を出したというニュースを見かけた。


近頃どれほど陰惨なニュースを見ても動かされなかった心が久々に動くのを感じた。きっと大江健三郎について集中的に語っていたせいなのだろう。私には子供はいないし、人の親になるような資格があるとも思わない。だからこの件について語る資格なんて端からありはしないのだけど、もう結論の出た話ではあるし、医師側に上告の動きがあるとの記載もなかった。落書き程度の文章を書いたからと言って誰かに咎められはしないだろう。


出生前診断が以前話題になっていた時、私が真っ先に思ったのは

「障害児の親を制度で支えられるとは思わない。『命の選別』だのなんだのと言って社会的圧力なんて加えるべきじゃない。」

ということだった。その意見はいまも変わっていない。出生前診断を受ける人たちは障害を持った子供を育てる自信がないからそれをするのだろうし、その行動を生まれてくる子供を自分たちが実際に育てる訳でもないのに批判する人々の神経をこそ私は疑う。批判する資格があるのは出生前診断で障害があると判明していながら出産を決断し今も育てている人たちだけだ。けれど出生前診断で陽性の結果が出た妊婦の9割は堕胎するというし、何しろ出生前診断そのものが急速に一般化したのがここ数年の話なのだから、そうした人々の数は決して多くないだろうと思う。そして何故か、障害を持つ子供を産み育てる決意をした親たちは、診断を受けて堕胎を決める夫婦を責めないだろうという予感がある。もちろん、あらゆる避妊行為を否定し受精卵の段階で一個の生命と認めるべしと論ずるカトリックのような人たちはそうでないのだろうけれど。


いい機会だと思って出生前診断について少し調べてみた。そして今頃になって、近頃話題になっていたのが「新型」出生前診断なのだと知った。それまで出生前診断と呼ばれていたのは羊水検査のこと。しかし2011年10月、アメリカのシーケノム社が妊婦の血液検査だけで高精度の判定が可能な新型検査の受託を開始した。それが出生前診断についての議論を呼んでいた、ということらしい。ちなみに日本での新型出生前診断は2013年の春に開始されている。


判定可能な遺伝子異常はまだそれほど多くない。ヒトが23対持つ染色体のうち、21番目、18番目、13番目の染色体の重複(トリソミー)を判定できる。確定診断には羊水検査を必要とする。今回の裁判で原告になった太田夫妻(仮名)が出生前診断を受けたのは11年3月で、診断に用いられたのは羊水検査だった。だから新型出生前診断は今回のケースには無関係ということになる。


記事によれば、夫妻の訴えは2つの部分に分けられるという。
ひとつは羊水検査の誤診について。
もうひとつは、赤ん坊自身が被った苦痛について。
誤診についての訴えは全面的に認められたが、赤ん坊の苦痛に関しての訴えは認められなかった。


私の抱いた違和感の源は、「息子が受けた苦しみに対して、ミスをした遠藤先生本人から謝ってもらいたかった」という夫妻の訴訟動機の説明と、赤ん坊の苦しみの代償を親が受け取ろうとしたことの2点にある。


特に前者に関しては記事の後半に


>太田さん夫妻によれば、遠藤医師は赤ちゃんのダウン症が分かった直後は「私の責任です」「一緒に育てさせてくれ」と親身になって相談に乗っていた


との記述もあることから、遠藤医師による謝罪の言葉がまったくなかったとは考えづらい。すくなくともそれに類する言葉くらいはあったろうと思うけれど、夫妻はそれがなかったという前提で証言を構成している。もしそうした言葉が実際にはあったのならば、遠藤医師の人格に対する不当な攻撃ということになるだろう。しかし医師は判決後の取材申入れを拒否して沈黙を守っており、いまその事実を確かめる術は存在しない。


私はそうした言葉はあったのではないかと思う。けれどその点について争わずにいるために取材拒否しているのではないかとすら思う。遠藤医師の出産直後の対応、誤診について自らの過失を100%認めている点、また地裁の判決に対して上告しようとしない点などから私はそのように想像する。太田夫妻はもう医師側との関わりを持ちたいとは思っていないかもしれない。けれど、もし赤ん坊の墓がどこかに立てられ、クリニックにその所在地を知らせる葉書を出せば、墓地には毎年花が手向けられることになるのではないかと思う。そして花を供える人のこころの裡には、夫妻が聞きたいと願っていた謝罪の言葉はいくども唱えられるのではないか、とも。


20年近く研究・教育畑を歩んでいながら、産婦人科クリニックを開業した遠藤医師のキャリアについても考えさせられるところは多い。医療事故発生率や訴訟リスクの高さから産婦人科や小児科を敬遠する医学生が多くなった、という話を聞くようになってからずいぶん月日が経つ。私のような一般人の耳にその手の話が届くのはきっと医学界での傾向が顕著になってしばらく経ってからだろうから、遠藤医師が開業したのはきっと、そうした状況のさなかだったのだろう。受講ニーズが減ったから、という可能性も皆無ではない。けれど私はどうしても、「なり手が少ないのなら自分が現場に立とう」と開業を思い立つ医師の姿を思い浮かべる。そんな風だから、私はつい遠藤医師に同情的になってしまう。


かといって太田夫妻に批判的になれるか、と言えばもちろんそんなこともない。おそらく太田夫妻には多くの批判がすでに向けられている。だからこそ記事には夫妻の実名が記載されなかったのだろう。批判の内容は想像に難くない。私はそうした批判の尻馬に乗って夫妻を批判したいとは思わない。何しろ彼らは幼い子供を失っているのだし。


ただ一点、夫妻の主張のなかで違和感を覚えた点については書いておきたい。それは先にも書いたとおり、「赤ん坊の苦しみの代償を親が受け取ろうとしたこと」についてだ。


そもそも批判できるようなことではないのかもしれない。苦しんだ本人の代わりに誰かが代償を受け取ること。それを否定すればいじめ自殺や過労自殺に対して遺族が訴訟を起こすことは難しくなる。死亡保険金の受け取りだっておかしいじゃないか、という話にもなりかねない。けれど少なくとも、いじめや過労に関してならば「加害」や「管理不行届き」という罪状を見出すことができ、それに対する懲罰の意味合いを込めた賠償金があることに納得はできる。死亡保険金ならば家計の担い手の喪失に対する備えという保険金そのものの性質や、加入する本人の意志があるはずだ。だがこのケースについて、どこかにそうした納得の契機を見つけることはひどく難しい。


21番染色体トリソミーを抱えて生まれることは苦痛に満ちた短い生を生きることとイコールではない。ダウン症者が成人を過ぎて生きる可能性は近年ますます高まっている。彼がひどく苦しんだのは、彼がそのように生まれついたからであるように私には思える。こういう書き方では誰かが罪の意識を抱くかもしれないが、それは私の意図するところではない。私の文章が拙いだけだ。私はこの件に関わった誰一人責めようとは思わない。


訴えの後半が「生まれてきた息子の苦しみを目の当たりにせずにいられなかった精神的苦痛に対して」のものであれば、ニュースを読んで抱く印象はかなり違っていただろう。医師側に命ぜられた賠償金の支払いは、誤診に対してというよりも、専らそのためのものであるように思う。