大江健三郎/泳ぐ男──水のなかの「雨の木」

どうしてこの中篇を省いてしまったのだろう、というくらい出来のいい作品。


それは大江健三郎自選短篇と名づけられた本だからだよ、という声が聞こえてきそうだ。いちおう説明しておくと、「新しい人よ眼ざめよ」には、この自薦集には収録されていない「雨の木」最後の短編からの抜粋がある。すこし長くなるけれど引用しよう。


《僕はいまも毎日のようにプールに通って、やすみなくクロールで泳ぎつづけながら、暗喩(メタファー)としてであれ、失われた「雨の木(レイン・ツリー)」を再び見出す日がいつくるものか、見当もつかない。それでいてどうしてこの草稿を書きつづけてゆけば、「雨の木(レイン・ツリー)」の再生を書く終章にいたることができると、思いこんでいたのだろう? なぜ僕はそのように、アクチュアルなものでなくフィクショナルなものによって、現実の自分を励ます力が保障されるはずだと、憐れな空頼みをしたのだろう? ことの勢いとして小説は終章にいたるにはちがいないが、そこにはにせ(・・)の「雨の木(レイン・ツリー)」が現出するのみのはず。そのようでは、現実の僕自身、精根つくして泳いだにしても、それをつうじて、病んでいる自分を越える、真の経験をかちとることはありえないだろう……》(p.588)


え、こんなこと書いてた?と「雨の木」を読み直しても見当たらない。収録されていない作品からの抜粋──しかも小説の核心をなすような力強い部分の抜粋につまらない底意をつい読み取りたくなってしまうのだけど──を探すために僕は本箱に「『雨の木』を聴く女たち」を取りに行った。それで同じ箇所を見つけ出した。考えてみれば事情は奇妙極まりないもので、
1.小説への批判に答えるように書き出した
2.そもそもその批判が的外れだと気づいた
3.ここ読んでればその批判ってなくない?
4.引用
5.作品台無し
という具合に物事は進行している。だってこんな引用があるのに「雨の木」のメタファー再構築しようったって無理に決まってるでしょ?大江さん難しいものも平気なひとだけど、だからってアクロバティックな論理を筋道立てて通せるタイプじゃないでしょ?それをやるには別種の才能が要る。できなかったから「新しい人よ眼ざめよ」は牽強付会と言わざるをえない作品になってしまっている。


確認するだけの目的で手に取った本のはずだった。それなのに、この「泳ぐ男」を読む手は止まらなかった。自分を「コロス」ように過酷なトレーニングを続ける玉利君と、玉利君を誘惑する外資系企業のOL猪之口。彼女の誘惑の媒介に利用される僕。彼女は僕がいると途端に饒舌になって、自分の「強姦され癖」までも玉利君に聞かせようとする。エスカレートする挑発と誘惑に抱いていた不吉な予感は最悪のかたちで的中して……。


首吊りと自己犠牲は大江健三郎オブセッションであるらしい。19世紀ロシアの小説を髣髴とさせるような、底辺を生きる女性をすくい上げようとする利他性の持ち主である高校教師は同時に、変態性欲の持ち主でもあった。その教師は結果的に青年を救うことになる。そのための行為であったかはわからないけれど。
これほど歪められたキリストの姿は珍しいだろうと思う。


この小説には小説家の戦い方の好例が出てくる。それも紹介しておこう。


 僕が子供の時分のある日、のちに考えれば死ぬ直前の父親がこういったことがある。──おまえのために、他の人間が命を棄ててくれるはずはない。そういうことがありうると思ってはならない。きみが頭の良い子供だとチヤホヤされるうちに、誰かおまえよりほかの人間で、その人自身の命よりおまえの命が価値があると、そのように考えてくれる者が出てくるなどと、思ってはならない。それは人間のもっとも悪い堕落だ。自分はそんなことにはならないとおまえはいうが、しかしチヤホヤされて甘ったれた人間には、子供ばかりじゃなく、大人になっても、そう思いこんでいるままのやつがいる。(p.278-279 「『雨の木』を聴く女たち」)


不自然さをそうと感じさせない勢いのある小説だった。そんな小説なら私は重箱の隅を突くようなつまらない批評はしない。