大江健三郎/新しい人よ眼ざめよ

この小説もまた応答から始まる。


Responsabilité、ポリフォニーといった概念を持ち出して擁護することもできなくはない。それは私が「頭のいい『雨の木』」について書いた後に思い出したことでもあった。けれど私にとって、そうしたくなる小説ではなかった。


すでに連作としての「雨の木」小説は終了していたから、僕はこの批判について沈黙しているほかなかった。(p.580)


──小説家はただ小説によって語るものだ。それはおそらく、商業主義の要請がなければあらゆる小説家が望む倫理だろう。しかしこの小説での大江の答えかたは決して小説的ではない。前作までの解説から始まり、批判を概説し、弁明するように「雨の木」連作で語られることのなかったインドネシアでの出来事を語り始め……「雨の木」と同じパターンだ。私にはなぜ大江がボロブドゥールやプーラ・ダレムの話を始めるのかよく理解できなかった。単なる自由連想──エピソードが喚起する記憶を踏み石のように渡り歩き、意識の底深くもぐっていくための手続き──なのかと思っていた。それがどうやら批判によって瓦解し始めた「雨の木」のイメージを再構築・再神秘化し、作品をまとめあげる磁力を取り戻させるための工作らしいと気づいたのは書評を書くために何度か読み返してからだ。そう、何度も読み返す必要があった。まるで論じられることに抵抗するような小説だったから。


二十歳に近づいたイーヨーが一週間寄宿舎に入る。そして戻ってくる。成長して。この作品内の時間で起こることはそれだけだ。その合間にHさんの死を思い出し、「同時代ゲーム」を語り、ブレイクを語り、その評論の言葉を引用して、「雨の木」とブレイクの「生命の樹」を結びつける。だがそれで、冒頭で語られたような創作意図が達成されているようには思わなかった。


全編にわたって私の苦手な自作解説をしているのだから、そもそも語ろうとすることに無理があったのかもしれない。この小説にはグロテスクかつ幻想的な大江健三郎らしい奇想があり、引用されるに足るフレーズがあり、かつて私に衝撃と霊感を与えてくれたエピソードがある。
けれどこの作品ではその煌きが悲しい。
私の小説にも引用はたびたび出てくる。その頻度とバランス次第ではこうした読後感を与えかねないのだと自覚することにしよう。


そうそう、ひとつだけ訂正。
大江健三郎作品のひとつの系統は「村=共同体=国家=宇宙」ものではなく、「村=国家=小宇宙」ものでした。いつの間にかあいだに共同体を入れて宇宙を大きくしちゃってたみたいです。