大江健三郎/無垢の歌、経験の歌

大江健三郎ほど叩きづらい小説家も珍しいような気がする。


その理由は明白で、大江はとにかく主人公の小説家がひどい目にあってヘマばっかりやって頓珍漢なことを言っては落ち込んだり無力感に苛まれたりしている様子ばかりを描き出すからだ。若い人はだいたいこーゆうのを読むと
「オレばっかりじゃないんだ。大江健三郎だって失敗するんだ。」
とかなんとか、とにかく自分に自信がないもんだからおかしなことに勇気づけられたり共感したりする。かく言う私もその一人である、と書きたいところだけれど、私自身はあまり大江健三郎に勇気づけられた覚えがないのでそうは書かない。本当はもっとそういう風に読める小説だと思う。
このあたりには作家の固有名が権威化を免れず、その作品を読むことが教養になってしまうといった事情も関わっているのではないか、と思ったりもする。本人はたぶん困っている。何しろやたらに祭り上げられたりひがまれたり言いがかりをつけられたりするから。しかもこの業界、大物の首を取って名を上げようとする戦国武将みたいなタイプが結構いる。いや、この業界に限った話じゃないかもしれないんだけど。でもまあ、そういうものをかわすための技術ってのも、ある程度は必要なんだろう。じゃないとキツイからね。ただ、この小説ではそれをやり過ぎている。


ヨーロッパでの番組撮影旅行から帰ってきた小説家は、妻から息子の暴力の報告を受ける。イーヨーの暴力。障害を持って生まれた息子はもう高校生になっている。そのイーヨーが妻に突然足払いを食らわせ、弟を小突き回し、妹の顔面を殴りつけた。ずっと音楽に興味を持っていたはずなのに、土産のハーモニカにも興味を示さない。ふと見合わせた眼には、獣性がたぎり立っている──。小説家と息子の和解を助けたのは小説家がかつて息子に与えた「定義」だった。「善い足」の定義。小説は定義という言葉を足がかりに、「川」そして「悲嘆」の定義へとそのゆらめくような足取りを進める。


というのがこの小説のあらすじ。なんだけど、ちょっと話に無理がある。イーヨーが障害児である点を除けばすごくシンプルな話だ。父親の不在時に長男が暴力を振るう。イーヨーの暴力、と書くと大江健三郎読者にはとても衝撃的に響くだろうけれど、これは単純にイーヨーも人間であり、その昇華の手段をまだ持たない、というくらいのことでしかない。それにイーヨーの暴力を止めたのは「定義」ではなく「父の帰還」だ。にもかかわらず大江健三郎は読者をミスリードしてしまっている。マルカム・ラウリーウィリアム・ブレイク、過去作品の話、それにHさんとの挿話や引用でそれらしい雰囲気を出してはいるけれど、これもほとんど目くらましに終わっている。ラウリーやブレイクを読みたくはなるけどね。こういうことを書くのは、大江健三郎はそれがわからない人じゃないと思うからだ。でももしかしたら本当にわからずに書いてしまったのかもしれない、という懸念はある。だとすれば、大江健三郎は自らの「父性」から目を背けていたのだろう。


納得のいかない作品。
大江健三郎って変なひとだな、くらいの軽いノリで書くつもりだったんだけど、ゼンゼン予定通り書けませんでした。最初に叩きづらいとか書いちゃったからかなあ。