大江健三郎/さかさまに立つ「雨の木」(2)

読み終えて第一に語ることの難しい小説、という印象が残った。


このブログを書くためにざっと読み返して、書くのはさらに難しくなった。この小説のことは小説自体が一番よく語っているから、わざわざ外から言葉を差し向ける必要があるようには思われない。それでも書かずにいられなくなるような衝動が身体の奥から湧き上がってくる、というのでもない。ブログをできるだけ更新するという目標がなければ「嫌いじゃないかな」くらいの一言で終わりになる。その程度の動機で書かれた文章だと思ってこの先は読んでもらえればと思う。


主人公の小説家は前作で登場したペニー、ペネロープ・シャオ=リン・タカヤスから一通の手紙を受け取る。それは前作のなかで高安を不当に貶めているとして轟々たる非難を浴びせかける内容のものだった。
「さようなら、私はもうあなたの友人ではないと思います。」
最後通牒とも言える言葉で手紙は終わる。小説家はカタルシスを覚えるほど打ちのめされ、目的のひとつを失いながらも再びハワイへ向かう。それは日本の政治状況と文学における周縁性というテーマで開催されるシンポジウムに招待されていたからだった。旅程にはまた別の集まりに出席する予定もあった。南予出身の老婦人のグループが反核兵器の集会を開く。そこで核状況について話をしてほしい……。
シンポジウムでは散々だった。パネル終了後の質問では発言内容に対する明白な拒絶を突きつけられ、解散後も雑踏のなかで皮肉られる。その二度の窮地を救ったのは、小説家への絶縁を宣言したはずのペニーだった。連れ立って入った中華料理店でペニーは高安の弔いについて話す。小説家は話に耳を傾けながら、自らの思想に学生だった高安の影響があったことに気づかされる。
「僕は学生時分から永くお世話になったW先生の死の後、メキシコへ向かう飛行機の上で、陽に輝く雲と海面とを眺めて、この自然のうちに原子となった先生の肉体が遍在すると考えた。それは深いところから自分が治癒される大きい解放感の経験であった。」(p.448)
その考えを教室で興奮して話す高安を、小説家を始めとする学友連は冷笑して迎えたものだった。ペニーからは、ミュージシャンとして成功した高安の遺児についての話も出た。ザッカリー・Kと名乗るその息子は、高安の遺した草稿に感銘を受けてそのすべてを持ち去った。そのノートから言葉を抜き出すたびにペニーに使用料を支払うという条件付きで。
シンポジウムの余波から反核兵器の集会は不参加に終わった。持て余した時間に海で泳ぐ小説家を、猛烈な怒りの発作が襲う。そんな彼に、またしてもペニーが声を掛ける。小説家は「雨の木」を見に行こうと言った。ペニーはザッカリー・Kのレコードを聴こうと誘った。ザッカリー・Kのレコードを聴き終えた二人は大きなソファーの上で身体を重ねる。
日本に戻った小説家のもとに、ミクロネシアでささやかな運動を続けるペニーから手紙が届く。そこには一枚の写真が入っていた。前作でその存在そのものが曖昧になっていた「雨の木」の写真。しかしそれは施設の火災によって大半を焼かれていた。もう二度と会うこともないでしょう、と書くペニーが小説家に贈ったマルカム・ラウリーの言葉で小説は終わる。


電車や喫茶店での細切れの読書のせいで、冒頭でかかった魔法は解けてしまった。文章や話の運びの拙さについてあれこれ言うのはこれきりにしよう。それでもこの小説の読後感が爽やかなのは、小説中で二度引かれるマルカム・ラウリーの言葉に拠る。結びの引用は英文になっていて、復習するように一度目を確かめたところにその言葉はあった。


「……乱れさわぎ、嵐をはらみ、雷鳴にみちているものであるにはちがいありませんが、それをつうじて心を湧きたたせる「言葉」が響き、人間への希望を伝えるはずです。」


この言葉は結びの英文には含まれていない。ここはわざと書き手がぼかされているようなところがあって、詳しく書くと、リチャード・K・クロスの研究書に依拠して書かれたペニーの手紙の内容を僕が紹介している文章のなかにこの言葉は出てくる。容疑者は五人だ。ラウリー、クロス、ペニー、僕、大江健三郎。この五人のうち誰かがこの言葉を小説に忍び込ませている。いったい誰が?そんなことを考えているうちに、この小説を満たす絶望的な終末観が打ち消されていく。


これは昔「新しい人よ眼ざめよ」を読んだときに思ったことだけど、大江健三郎の小説はあまり小説らしくない。この人は本当にパンクで「壊す人」だったんだな、と思っていたらこんな一節も見つけた。


「ペニーもいうとおりに、僕の小説の書き方として、それは事実に立ってはいるが、その範囲に想像力を限定するのではなく、つまりは自由な小説づくりの論理で書かれた。」(p.412)


でもね、これだけは言っておきたいんだけど、自由な小説のあらすじ書くのって相当大変よ?