2018G7サミット閉幕後、安倍首相会見内容文字起こし

司会「それでは只今より安倍内閣総理大臣によります記者会見を始めさせていただきます。始めに、安倍総理からご発言がございます。この発言を終えた後ですね、皆様方から応答質疑、質疑応答をいただきます。それでは安倍総理お願いいたします。」


総理「先ほど本年のG7サミットが閉幕いたしました。まず冒頭、カナダ国民の皆様の心温まる歓待に対して心から感謝申し上げたいと思います。そして議長を務めたトルドー首相のリーダーシップにも敬意を表します。
近年、世界経済はますます国境がなくなり、相互依存を深めています。こうした、急速な変化に対する不安や、不満が、時に保護主義への誘惑を生み出し、国と国との間で鋭い利害対立を生じさせる、これはG7の内部においても例外ではありません。本年のサミットでは、貿易をめぐって、激しい意見のやり取りがありました。貿易制限措置の応酬は、どの国の利益ともならない。いかなる措置も、WTOのルールにしたがって、行われるべきであります。世界の貿易や、投資を、拡大するためには、自由で公正なルールを打ち立て、それを進化させていくことが必要です。人の技術や、ノウハウを、盗むような行為が横行すれば、持続的な経済発展など望むべくもありません。こうした大きな価値観と、世界が歩むべき方向性を共有しながら、これまで世界経済の成長を力強く牽引してきた、それが私たちG7であります。だからこそ安心して互いに本音をぶつけ合うことができる。G7サミットは、これまでも、そういう場でありました。
今回のサミットは、とりわけ見解が異なる局面が多く、難航しましたが、そうした中にあっても、補助金などによる、過剰生産の問題を見過ごすことはできない。市場を歪める不公正な貿易・投資慣行に対して、G7として断固対抗していくとの認識で一致いたしました。そして自由で公正なルールに基づく貿易システムを発展させるため、努力していくことをG7として確認しました。会場の外で、夜に、そして朝に、首脳だけで集まり、まさに膝を詰めて、まさに膝詰めで直接本音をぶつけ合い、こうした合意に至ることができた、首脳宣言として発出できることは、大きな意義があると考えています。TPP、欧州とのEPA、日本は引き続き、自由貿易の旗手として、自由で公正なルールに基づくマーケットを世界へと広げていく、そのリーダーシップを力強く発揮していく決意であります。同時に、経済成長で得られた果実を、教育や福祉に分配することを通じて、しっかりと国民全体に広く均霑していく、さらには環境との調和を図るために投資する、そのことによって次なる経済成長が可能となります。持続的な成長を実現するため、そうした好循環を、作り上げていく取り組みが必要です。私からそのことを訴え、他のリーダーたちから賛同を得ることができました。現在、世界経済は全体として堅調に推移しているものの、一部の新興国においては、通貨下落など、経済に変調も見られます。市場の不安を払しょくするためにも、私たちG7が必要に応じて行動するとの意識をもって、市場動向を注視していく。G7が協調して、世界経済の安定に役割を果たしていくべきであります。こうした議論の中で、北朝鮮問題では、全員の意見が一致しました。様々な地政学的リスクへの対応も、G7の重要な役割です。特に、北東アジアの平和と安定は、世界経済の安定的な成長にとって、極めて重要な役割を果たすものであります。この問題については、サミットだけでなく、イギリスのメイ首相や、ドイツのメルケル首相との個別の首脳会談においても、私から、丁寧に説明を行いました。そして国際社会が一致して、これまでと何ら変わることなく、安保理決議の完全な履行を求めていく、そのことをG7の総意として改めて合意しました。北朝鮮には豊富な資源があり、勤勉な労働力があります。北朝鮮が正しい道を歩むのであれば、明るい未来を描くことも可能です。核・ミサイル問題そして何よりも重要な拉致問題が解決すれば、我が国も平壌宣言に基づき、不幸な過去を清算して、国交を正常化し、経済協力を行う用意があります。G7のリーダーたちと緊密に連携しながら、北東アジアに真の平和が実現するよう、日本も力を尽くしていく決意を表明しました。直前に迫った米朝首脳会談の成功を、強く、期待いたします。歴史的な会談に臨むトランプ大統領をG7として支持し、その交渉姿勢を支えていく、その点で私たちG7は完全に一致することができました。自由、民主主義、人権、法の支配、私たちはこうした基本的な価値で結ばれた国々であります。そして私たちは、世界の平和と繁栄に、大きな役割を果たしていく、その強い責任感を共有しています。経済、安全保障、世界が直面する課題に、しっかり、処方箋を示していく。そのためにはロシアの建設的な関与を求めていくことも、必要です。そのためには、私たちもロシアも、双方がその環境整備に向けた努力をしていかなければならない。その点についても今回、首脳たちと、議論をいたしました。様々な意見の相違はあろうとも、私たちが率直な議論を通じて、一致結束し、世界の平和と繁栄をリードしていく、その変わらぬ決意を、初夏の美しいケベック、シャルルボアの地で今回、改めて世界に示すことができたと考えています。私からは以上であります。」


司会「それでは質問いただきますので、最初に日本側の記者の方から、あの、お願いいたします。あのご質問がある方、挙手をいただきまして、わたくし指名いたしますので、マイクに進み出まして、お名前と所属を明らかにされたうえでお願いします。はい、どうぞ。」


記者「TBSテレビのイザと申します。よろしくお願いします。今回のG7サミットでは、アメリカが課した鉄鋼などの輸入制限を巡り、アメリカとアメリカ以外の対立が見られましたけれども、最終的には、宣言をまとめることができました。安倍総理アメリカと、アメリカ以外の国の橋渡しを、どのように行ったのでしょうか。また、宣言がまとまったことで、G7の結束を保ちましたけれども、トランプ大統領が輸入制限措置を撤回しないなど、現状は変わっていません。こうした状況を鑑みて、G7サミットの意義について、改めてお聞かせください。」


総理「先ほども申し上げましたが、経済のグローバル化が急速に進む中において、変化に対する不安や、不満が、時に保護主義への誘惑を生み出し、国と国とのあいだで激しい対立を生じさせる、これは、G7においてもですね、例外ではありません。しかし、時計の針を逆戻りさせてはならない。G7が貿易制限措置の応酬をすれば、どの国の利益ともならない。ありてはなくて。市場を歪める不公正な貿易、投資慣行を続ける国々を利するだけである。首脳間では、様々な意見がありました。時には相当激しいやり取りもありましたし、今までの私の、今回のG7、7回目の出席でありますが、えー、歓迎行事等々、食事も終わってですね、かなり遅い時間になって、首脳同士が再び集まってですね、首脳だけで、膝詰めで議論をする、交渉し、そして次の日の朝もですね、朝から首脳同士が議論するという場面はなかった、今回のようなことはなかった、と記憶をしておりますが、えー、わたくしはですね、えー、まその、時、にも、様々な議論があったんですが、国際社会が作り上げてきた、自由で公正なルールをしっかりと堅持をし、そして課題があるならばむしろ、こうしたルールを進化させることで解決すべきであることを強調し、すべての国から理解を得ることができました。G7サミットは個別の紛争や利害調整を行う場ではありませんが、他方で、これまでG7がリードしてきた、自由で公正な、ルールに基づく貿易システムを、発展させる努力をしていくことで、今回、G7が合意に至った、合意することができた意義は大変わたくしは大きいと思います。G7ていうのはまさに、首脳同士が集まって率直に意見交換をする場所、であります。相手がどういう考え方を持って主張をしているのかを理解しながら、同時にですね、私たちがお互いに世界経済をリードしていかなければいけない。今申し上げたような自由で公正なルールに基づく貿易システムを発展させるという、責任感を共有している、これをもう一度確認しあうこともできた、それがまさにG7の役割であろう、そして意義でもあろうと思います。世界経済の持続的な成長を今後も、ともに、リードする、G7の意志を示すことができたと思っています。」


記者「トランプ大統領北朝鮮との会談について色々な声明を発しています。間もなく北朝鮮のリーダーと会うことになります。色々な準備も進んでおります。トランプ大統領との会談ではどのようなアドバイス安倍総理から提供したんでしょうか。どのようにこの米朝首脳会談の成功の可能性についてお考えでしょうか。」


総理「わたくしはこのシャルルボア、カナダを訪問する前に、ワシントンを訪問しまして、トランプ大統領と首脳会談を行いました。その際、ほとんどの時間を費やして、北朝鮮の問題について、話をいたしました。北朝鮮に対して、北朝鮮によるすべての大量破壊兵器、あらゆる射程の弾道ミサイルおよび、関連施設のCVIDの実現が必要であること、そしてそのために北朝鮮に対し、関連安保理決議の完全な履行を求め、具体的な行動を引き出していくことにおいてですね、完全に一致をしたと、こう思っております。また、日本にとって極めて重要な問題である、拉致問題について、41年前、新潟の美しい港町から、13歳の少女が拉致をされた、彼女だけではなくてすべての拉致被害者の即時帰国を求めていかなければいけないわけでありますが、この問題の解決についてもですね、トランプ大統領は協力をしていくことを、協力していく、ということについて約束をしていただきましたし、米朝首脳会談で提議していく、ということについても力強く、約束をしていただきました。こうした首脳会談、歴史的な首脳会談に向けた、準備においても日米でしっかりと、共に準備を行い、そして基本方針については、私はしっかりとすり合わせることができたと思います。もちろん、北朝鮮をめぐる問題、なかなか解決できなかった問題でありますが、そう簡単なことではない、と思いますが、歴史的な米朝首脳会談が成功し、核・ミサイル問題、そして、拉致問題が前進することに期待をしておりますし、日本としても全面的に協力をしていきたい、支持をしていきたいと考えています。」


司会「はい、それでは第3問目をいただきます。予定された時間の関係で、3問目が最後になる可能性もありますけれども、お許しいただきたいと思います。それではご質問希望される方、じゃ、日本のメディアの方からまいります。」



記者「産経新聞の滝田といいます。まさにいま話されたように、来週に米朝首脳会談が行われるんですけれども、今回G7としてですね、北朝鮮の非核化と、拉致被害者の早期帰国、解決について完全な合意に至りました。総理としてですね、米朝首脳会談拉致被害者の帰国に道を開くことになるという感触はどれほどあるんでしょうか。また日米首脳会談の後の共同記者会見でですね、日朝首脳会談について意欲を示されたと私たちは受け止めたんですけども、今後具体的な日朝協議への道筋をどのように描かれているんでしょうか。」


総理「トランプ大統領との会談においてはこの拉致問題についても相当時間を掛けてお話をさせていただきました。拉致問題の経緯、あるいは被害者のご家族の皆様がいかに帰国を切望しているか、もうあまり時間も残されていない、ということも含めて、お話をさせていただいたわけであります。そして早期解決に向けて理解と協力を、このG7におきましてもですね、G7におきましてもこの問題について理解と協力を呼びかけ、多くの国々から、すべての国々から理解と支持を得ることができたわけでございますが、トランプ大統領からもですね、共同記者会見においても、この問題は必ず提議する、と力強い発言がありました。えー、そしてですね、この問題についてはですね、北朝鮮問題への対応については、まさに米国を始めとするG7、各国や国際社会と引き続き連携をしていきますが、拉致問題については最終的に、我が国自身が北朝鮮と直接協議し、そして解決をしていく決意であります。日朝首脳会談については、これを行う以上は北朝鮮の核・ミサイル、そして何よりも重要な拉致問題の解決につながることが極めて重要であります。問題解決につながる形で首脳会談が実現されればよいと考えています。この会談においてですね、まさにトランプ大統領からこの拉致問題が提議をされ、そして最終的には今申し上げましたようにですね、最終的には日本と北朝鮮との間で直接協議をし、解決する、そういう決意でありますが、それに向かってですね、この米朝首脳会談が大きな成果を上げることを強く期待をしております。」


記者「サラ・ムニョスと申します。ウォールストリートジャーナルです。最近のアメリカによる保護主義の動き、それからまた自動車関税の動きを見ておりますと、アメリカの自由貿易に対する脅威に対して日米でどのように協力をしていくことができるでしょうか。」(※これは同時通訳された発言内容です。実際の記者の発言とはかなり食い違っているようですが、音源から正確な発言内容を確認するのは困難です。)


総理「まず中国について言えばですね、中国について言えば、日中関係については近年、困難な局面が続いてまいりましたが、先月、李克強首相が中国の国民総理として8年ぶりに日本を正式訪問をいたしました。日中関係の抜本的な改善に向け、重要な一歩を踏み出すことができたと思います。日中両国は、アジアそして世界の平和と繁栄に欠くことのできない、大きな責任を共有しています。両国がその責任をしっかりと果たしていくことへのアジア諸国や国際社会の期待を強く感じています。私の年内の訪中、そしてその後の習近平国家主席の初訪日、国家主席としての初訪日。首脳レベルの往来を積み重ねあらゆる分野の交流、協力を推し進め、日中関係を新たな段階に押し上げていきたいと思っています。そして自由貿易の問題については、日本は、国際ルールに基づく自由で開かれた、公正な経済秩序の構築を一貫して重視しています。いかなる貿易上の措置も、WTO協定と整合的であるべきであり、対抗措置の応酬は誰の利益にもならないと考えています。同時に、知的財産の保護を始め、国際ルールの順守も重要な課題であり、我が国としては、以上の立場に基づいて、自由貿易体制の維持と推進に引き続き、積極的な役割を果たしていきたいと思います。日中関係とですね、また日米関係を、これは、単純に比較するわ(ここまで)

庄司薫/赤頭巾ちゃん気をつけて

時は東大紛争真っ只中。
ひとりの東大志望者だったショージカオルくんは大学進学そのものを取りやめ、自らの知性を自分自身の力でどこまで伸ばすことができるのかを試す賭けに出る。
──自らの知性を伸ばすために大学に行かない?
大学が知性のための場所だと考える向きには違和感のある表現かもしれない。けれどカオルくんには彼なりの考えと思いがある。それが、「うまく言えない」という思いを孕んだ極めて複雑なものであったとしても。そんなものを代弁できるわけはないのだから、これから先は本人の言葉を借りるとしよう。


「つまり、うまく言えないのだが、たとえば知性というものがほんとうにぼくの考えるような自由なもので、もともと大学とか学部とかには無関係なものであるとすれば、ぼくがたまたま(恐らくはぼくの幸運から)決めていた東大が入試中止になったからといって、大あわてでガタガタするのはおかしいじゃないか。ここであわてて、次にいいのは京大だ一橋だと騒ぐのは、それこそぼくが結局「ああ、あれか」という東大受験生だったことを認めることになるんじゃないか、などといったようなことを考えたのだ。もちろんぼくは他にもそれこそいろいろなことを考えた。そしてでも要するにぼくは、結局一つの賭けをしてみようとでもいう気になったのだ。つまりこの入試中止をむしろ一つのチャンスのように考えて、ぼくはぼく自身を(そしてちょっと大袈裟だが敢えて言うならばぼくの知性を)自分の力でどこまで育てることができるかやってみよう、と。」(庄司薫「赤頭巾ちゃん気をつけて」(中公文庫)P.34-35)


カオルくんはそんな気持ちをわざわざ説明してまで誰かに理解してもらいたいとは思っていない。彼はガタガタ言わなくとも理解してくれる友人や肉親に恵まれていて、ふだんは喧嘩ばかりしている恋人未満の女友達だって、実はそういうところはすんなり理解してくれる物分りのいいひとだったりする。


じゃあカオルくんがそういう人たちとばかり接していられるか、と言えばそれはまた別の問題なのだ。何しろ僕らは生きているのだし、その避けがたい生活のなかには近所づきあいというものもある。それだって避けようと思えばいくらでも避けられる生活を送る現代の僕らには理解しづらくなっている問題なのかもしれないけれど、少なくとも彼の生きる時代はそうではなかったのだ。


教育に高い関心を持つ、これも一昔前の言葉を使えば「教育ママゴン」とでも呼べそうな女性に「つかまっちゃった」後のカオルくんの独白をしばらく書き写すことにしよう。そのなかに、僕が君に読んでほしいと思う箇所がある。


「あーあ、ぼくは、この学校群なんかの問題には全く弱いところがあるのだ。というのは、彼女のちょっと挨拶のしようもないほど明らさまな見解は、或る意味で事実そのものであって、この学校群やなんかのことでぼくが考えたり感じたりしたことの枝葉の部分を(実はここがぼくにとっては大事なのだが)うっかり苅り込むと、まさに彼女の意見に要約されかねないような気がするのだから。つまり、ぼくは確かにいわゆる「学校群以前」の日比谷の最後の生徒で、学校群によって、まさに見事というかなんというか、すっかり変わってしまった日比谷の姿をいわば砂かぶりで眺めていたわけなのだ。そしてまあ実にいろいろなことを感じ考えた。どう言ったらよいかよく分らないのだが、要するにまず以前の、つまりぼくが一年生だったころの完全に学校群以前の日比谷高校というのは、或る意味であんなにもいやったらしい学校はおよそどこ探してもなかったといっていい。それも、よくみんなが考えるような、受験第一の優等生が勢揃いしたいやらしさなんて、そんな可愛げのあるものじゃないのだ。つまり、当時の日比谷といえば東大受験競争の総本山みたいなものだってことは分りきったことなのに、入ってみると試験なんて年に二度っきりで、成績の発表なんてものもないから、誰ができて誰ができないのかという優等生にとって肝心なこと(?)すらさっぱり分らないような仕組みになっている。その上授業そのものも、ほとんど生徒が交替で勝手な講釈をやっているなんてわけだ。そして馬鹿でかいオーケストラがしょっ中演奏会をやってたり、おかしな雑誌がボコボコ出たり、とにかくクラブ活動が滅多やたらとさかんで、生徒会活動の方もいつも超満員の生徒総会を中心に猛烈に活潑で、といったありさまで、これを要するに、なんてことだ、学校中が受験競争なんて全く忘れたような顔をして、まるで絵にかいたような戦後民主教育の理想みたいなものを演じていたってわけなのだ。まさに欺瞞的というかキザというかいやったらしいというか、どうしようもないインチキ芝居を学校全体で足なみ揃えてやっていたといってもいい。そして生徒たちときたら、下級生にやたらと丁寧でやさしい上級生を初めとしてみんなそろいもそろって礼儀正しく、女の子には親切で(女の子は数も男の三分の一で、それに他を落ちて「日比谷に廻されちゃったの」なんていう可愛い足弱さんがいっぱいいるってな、ちょっとした西部劇の雰囲気なんだ)、とにかく上から下まで一人前の紳士面をしてやっていたし、先生も先生で、息子同然の思春期のニキビ生徒たちが一人前の顔をするのを寄ってたかって持ち上げる、つまり生徒の主体性を尊重するというお芝居を一生懸命やっていたわけだ。なかでも傑作なのは、学年の変り目に、なんと生徒の方に、その年とる講義と先生を選ばせる儀式で、これはもう先生も生徒もキザが過ぎて気が狂ったみたいなものだった。つまりぼくたちは、或る朝一学年全員が校庭に集まってきて、それぞれの思惑に従って、一課目ごとに好きな先生を選び、そして好きなクラス担任を選んでその旗のところに集まる(先生方は、昔の茶店のおやじよろしく、ほんとうに旗を立てて、どうぞ私の店へってな調子で待っているんだから呆れちゃう)。当然、沢山の生徒が集まる先生と集まらない先生が出てくるわけで、そうすると生徒同士の折衝が始まり、じゃああっちの課目おれが譲るからそっちの組へ入れろ、なんて取引きやなんかが校庭中で始まるって寸法だ。もちろん生徒たちは、それぞれ気に入った仲間と徒党を組んで、その徒党は大小さまざま無数にあり、また一匹狼なんてのもウロウロするからこれはえらい騒ぎで、たった九つのクラスがどうやら決るのは日も落ちかけた夕暮になるなんて話になる。もちろんその間、あっちに並んだりこっちに並んだり、取引きしたりぬけがけしたりウロウロキョロキョロ大体は立ってるわけだから、終った時にはクタクタだ。そして帰りがけに新しい担任の先生に、よろしくお願いしますなんて言われて、生徒の方もこちらこそよろしくなんてお互い嬉しそうにやってる図は、どうにも相当ないや味じゃなかろうか。つまりこれは、例の生徒の主体性を尊重するという名のもとに行われるお芝居の典型みたいなものなのだが、それを生徒と先生が一緒になって、それこそ朝から晩まで一日がかりで全員フラフラになってやるなんてのは、まさにキザもいや味もここに極まって気が狂ってでもいなきゃできないのじゃあるまいか、といったところがあったのだ。そしてここにさらに例の芸術派の大活躍が加わる。芸術派は文学派にしろ音楽派にしろ美術派にしろみんな大天才みたいな顔をしていて、あっちこっちでしょっ中雑誌は出るわ音楽会はあるわ展覧会はあるわで、それに他の連中もみんないっぱしの批評家面をしているのだからそのまあいや味ときたらたまらない。つまり(まだまだかつての日比谷のことを語り出したらほんとにきりがないけれど)日比谷って学校は、先生や普通の生徒はもちろん、こういった口うるさい芸術派やそれに革命派までもが呼吸を合わせて、受験競争なんてどこ吹く風、みんなその個性を自由にのばしているのだといった大インチキ芝居を、学校をあげて演じていたというわけなのだ。そして役者と同様、いつの間にかほんとうにその気になったりして、ここに誇りと自信に溢れた、つまり言いかえればこの上なくいやったらしい日比谷高校生ができあがるってことになる。ほんとに、こんなに持ってまわったいやらしさってのは、ちょっと他に考えられないのじゃないだろうか? さっきも言ったように、優等生が集まって受験受験でガリガリやっているなんていうのはまだいいのだ。全国の高校生がみんな頭を悩ましている受験競争を、そのまさに焦点にいながら全く無視したような顔をしていること、これは(たとえそれが表面だけのことにしろ)まさに激烈なる現代の生存競争への一侮辱であり、鼻持ちならぬ傲慢さであり、この民主主義社会では許すべからざるエリート意識なのではあるまいか。この意味でぼくは、民主教育の徹底をはかるという趣旨の学校群制度ができ、それによって日比谷が完膚なきまでに変ったのは、或る意味で当然のことだとも思うのだ。
 そして実際問題としてこの学校群制度は、この日比谷のいやったらしさを実に見事に一掃したものだ。要するに、インチキお芝居は終った何もかも、ということになったのだ。まず影響は芸術派に現われた。芸術っていうのはいつの時代でも一種の贅沢品なのかもしれないが、とにかく受験生には余計なものだってことなのだろう。芸術派はもちろん曲者や変り者は少なくなり、オーケストラも雑誌も各種クラブ活動もいつの間にかだめになり、そして生徒総会も空席が目立ちはじめ、やがて半分にそして三分の一にと減って死んでしまった。かつてぼくたちの半円形大講堂で開かれた生徒総会はいつも満員で、保守派・革命派・まあまあ派なんてのが入り乱れて演壇に駆け上り、一人前の市民面をした満員のうるさ型ぞろいの聴衆をうならせるべくあの手この手でせり合ったりして、まあ考えてみればこの上なくキザでいや味な図だが結構面白いインチキ民主政治芝居をやっていたものだ。でもいまやそんな欺瞞的行為は許されないということになった。年二回の試験なんてカッコよさもぼくたちを最後に終りとなり、実力テストが繰返されるようになり、もちろん例の旗立てて先生を選ぶなどという大インチキ儀式もかっきりぼくたちで最後となった。下級生の一部からは、こういう変化に対する反撥の抗議やら署名運動も起ったけれど、それもほんの少数でもう誰もついてきはしない。みんな小サラリーマンのように受験受験で明けくれて、上級生が生徒総会に誘っても、勉強がありますから、と平然と断る生徒が入ってくるようになったのだから。要するにお芝居はやめよう、キザなインチキはやめて、受験生は受験生らしく素直に受験勉強に邁進しようということなのだ。クラブ活動だとか生徒会活動だとかいった鼻もちならぬ欺瞞はやめて、受験競争という赤裸々な現実を直視しよう、お互い受験競争では敵同士なのだから変な紳士面はやめて卒直に戦おう、とまあそういった素直な高等学校が下から確実にできあがってきたというわけなのだ。
 もちろんぼくは、こういうなんていうか、いわば現実を直視するスタイルに一種の美しさがあることは認める。何故って、ぼくたちが生きている限り、誰だって否応なしになんかの形で、この現実を直視するスタイルをとらざるを得ないにちがいないんだから。だからつまりぼくが言いたいのは、ただ、たとえば(いまになるとつくづく思うことだけれど)、あのかつてのいやったらしい日比谷をどうしようもないほどがっちり支えていたようなもの、つまりあの現実を無視したインチキ大芝居なんてものが、実はほんとうに脆いものだったなあというようなことなんだ。つまりぼくは、ぼくの下級生たちが、たとえ学校群という福引みたいな形で入ってきたとしても、実際問題としてそんなにも極端に程度が落ちたとは思わない(それに、考えてみれば、下級生たちはむしろ気の毒なんだ)。でも問題はそんなことではないのだ。ああいうキザでいやったらしい大芝居というのは、それを続けるにはそれこそ全員が意地を張って見栄を張って無理をして大騒ぎしなければならないけれど、壊すだんになればそれこそ刃物はいらない。誰かほんの一にぎりの生徒が、この受験競争のさ中になりふり(・・・・)かまっていられるか、と一言口に出せばもうそれで終り、誰か一にぎりの生徒が「勉強がありますから」と平気で生徒総会を欠席すればもうそれで最後といったそんなものだったのではないだろうか。もっともこれは日比谷だけではないかもしれない。芸術にしても民主政治にしても、それからごく日常的な挨拶とかエチケットといったものも、およそこういったすべての知的フィクションは、考えてみればみんななんとなくいやったらしい芝居じみたところがあって、実はごくごく危なっかしい手品みたいなものの連続で辛うじて支えられているのかもしれない。まあいずれにしても、ぼくがここで言いたいのは、いまになってみると、あのかつての日比谷のいやったらしさ、あの受験という現実を忘れたふりをしたお芝居に全校あげて熱をあげていたみたいな光景が、時々なんていうか、妙に懐かしいようにそしていじらしいように思い出されるっていうことなのだ。もっとも、こんな感じ方をすること自体がぼくの時代錯誤を証明するのかもしれない。いまや、受験生は受験一筋に、そして次いではゲバ棒をとってすべてのインチキくさい知的フィクションを叩きつぶすというのが、ぼくたち若者をとりまく時代の方向らしいから。ぼくみたいなのは、だからこの奥さんの言うとおり、下からは学校群、上にはゲバ棒というまさにその間に「板ばさみ」になった、なんとも馬鹿げたシーラカンスなのかもしれない。
 でも、それにしてもかつての日比谷高校ほど、あんなにもいやったらしくキザで、鼻持ちならぬほどカッコよく気取っていた高等学校はなかったのだよ。そしてこれだけは確かだけれど、ああいう学校はつぶすのは簡単だけれど、これをまた作ろうとしたってもう絶対に、それこそちょっとやそっとではできはしないんだよ。もちろんぼくたちを含めて、これまでのどんな日比谷の卒業生にきいてもみんな、(賭けてもいいが)あんないやったらしい高等学校はなかったと言うにちがいない。あんなにいや味でキザで鼻持ちならぬ欺瞞的学校はなかったと。誰にきいたって、日比谷が素晴しい学校だったとか世界一いい高等学校だったなんてほめはしない。何故って、絶対に、意地でもそんなことは言わない生徒をあの学校は育てていたのだから。気取っていて見栄っぱりで意地っぱりで紳士面していて受験勉強どこ吹く風で芸術などというキザなものに夢中でまわりくどい民主政治にえらく熱心で鼻持ちならぬほど礼儀正しくて馬鹿みたいに女の子に親切で、つまりどこから見てもいやったらしい生徒ばかり育てていたのだから。だからぼくだって絶対にほめやしない。ぼくだってかつての日比谷ほどいやったらしい高等学校はなかったと言うのだ。あんな学校がどうなろうと、別に世界の歴史が変るわけでもなし、まあどうってことはありません、学校群でダメになったといっても、それは考え方の問題だと思います、なんて、あくまでもかつてのいやったらしい日比谷高校生、鼻持ちならぬ日比谷高校最後の生徒らしく、気取って頑張って答えるのだ。」(ibid., P.79-87)

出生前診断をめぐるある訴訟について

出生前診断で異常なしの報告を受けた胎児がダウン症を持って生まれ、三ヶ月で早世。誤診した医師への夫妻の訴えを函館地裁が認めて1000万円の賠償を命じる判決を出したというニュースを見かけた。


近頃どれほど陰惨なニュースを見ても動かされなかった心が久々に動くのを感じた。きっと大江健三郎について集中的に語っていたせいなのだろう。私には子供はいないし、人の親になるような資格があるとも思わない。だからこの件について語る資格なんて端からありはしないのだけど、もう結論の出た話ではあるし、医師側に上告の動きがあるとの記載もなかった。落書き程度の文章を書いたからと言って誰かに咎められはしないだろう。


出生前診断が以前話題になっていた時、私が真っ先に思ったのは

「障害児の親を制度で支えられるとは思わない。『命の選別』だのなんだのと言って社会的圧力なんて加えるべきじゃない。」

ということだった。その意見はいまも変わっていない。出生前診断を受ける人たちは障害を持った子供を育てる自信がないからそれをするのだろうし、その行動を生まれてくる子供を自分たちが実際に育てる訳でもないのに批判する人々の神経をこそ私は疑う。批判する資格があるのは出生前診断で障害があると判明していながら出産を決断し今も育てている人たちだけだ。けれど出生前診断で陽性の結果が出た妊婦の9割は堕胎するというし、何しろ出生前診断そのものが急速に一般化したのがここ数年の話なのだから、そうした人々の数は決して多くないだろうと思う。そして何故か、障害を持つ子供を産み育てる決意をした親たちは、診断を受けて堕胎を決める夫婦を責めないだろうという予感がある。もちろん、あらゆる避妊行為を否定し受精卵の段階で一個の生命と認めるべしと論ずるカトリックのような人たちはそうでないのだろうけれど。


いい機会だと思って出生前診断について少し調べてみた。そして今頃になって、近頃話題になっていたのが「新型」出生前診断なのだと知った。それまで出生前診断と呼ばれていたのは羊水検査のこと。しかし2011年10月、アメリカのシーケノム社が妊婦の血液検査だけで高精度の判定が可能な新型検査の受託を開始した。それが出生前診断についての議論を呼んでいた、ということらしい。ちなみに日本での新型出生前診断は2013年の春に開始されている。


判定可能な遺伝子異常はまだそれほど多くない。ヒトが23対持つ染色体のうち、21番目、18番目、13番目の染色体の重複(トリソミー)を判定できる。確定診断には羊水検査を必要とする。今回の裁判で原告になった太田夫妻(仮名)が出生前診断を受けたのは11年3月で、診断に用いられたのは羊水検査だった。だから新型出生前診断は今回のケースには無関係ということになる。


記事によれば、夫妻の訴えは2つの部分に分けられるという。
ひとつは羊水検査の誤診について。
もうひとつは、赤ん坊自身が被った苦痛について。
誤診についての訴えは全面的に認められたが、赤ん坊の苦痛に関しての訴えは認められなかった。


私の抱いた違和感の源は、「息子が受けた苦しみに対して、ミスをした遠藤先生本人から謝ってもらいたかった」という夫妻の訴訟動機の説明と、赤ん坊の苦しみの代償を親が受け取ろうとしたことの2点にある。


特に前者に関しては記事の後半に


>太田さん夫妻によれば、遠藤医師は赤ちゃんのダウン症が分かった直後は「私の責任です」「一緒に育てさせてくれ」と親身になって相談に乗っていた


との記述もあることから、遠藤医師による謝罪の言葉がまったくなかったとは考えづらい。すくなくともそれに類する言葉くらいはあったろうと思うけれど、夫妻はそれがなかったという前提で証言を構成している。もしそうした言葉が実際にはあったのならば、遠藤医師の人格に対する不当な攻撃ということになるだろう。しかし医師は判決後の取材申入れを拒否して沈黙を守っており、いまその事実を確かめる術は存在しない。


私はそうした言葉はあったのではないかと思う。けれどその点について争わずにいるために取材拒否しているのではないかとすら思う。遠藤医師の出産直後の対応、誤診について自らの過失を100%認めている点、また地裁の判決に対して上告しようとしない点などから私はそのように想像する。太田夫妻はもう医師側との関わりを持ちたいとは思っていないかもしれない。けれど、もし赤ん坊の墓がどこかに立てられ、クリニックにその所在地を知らせる葉書を出せば、墓地には毎年花が手向けられることになるのではないかと思う。そして花を供える人のこころの裡には、夫妻が聞きたいと願っていた謝罪の言葉はいくども唱えられるのではないか、とも。


20年近く研究・教育畑を歩んでいながら、産婦人科クリニックを開業した遠藤医師のキャリアについても考えさせられるところは多い。医療事故発生率や訴訟リスクの高さから産婦人科や小児科を敬遠する医学生が多くなった、という話を聞くようになってからずいぶん月日が経つ。私のような一般人の耳にその手の話が届くのはきっと医学界での傾向が顕著になってしばらく経ってからだろうから、遠藤医師が開業したのはきっと、そうした状況のさなかだったのだろう。受講ニーズが減ったから、という可能性も皆無ではない。けれど私はどうしても、「なり手が少ないのなら自分が現場に立とう」と開業を思い立つ医師の姿を思い浮かべる。そんな風だから、私はつい遠藤医師に同情的になってしまう。


かといって太田夫妻に批判的になれるか、と言えばもちろんそんなこともない。おそらく太田夫妻には多くの批判がすでに向けられている。だからこそ記事には夫妻の実名が記載されなかったのだろう。批判の内容は想像に難くない。私はそうした批判の尻馬に乗って夫妻を批判したいとは思わない。何しろ彼らは幼い子供を失っているのだし。


ただ一点、夫妻の主張のなかで違和感を覚えた点については書いておきたい。それは先にも書いたとおり、「赤ん坊の苦しみの代償を親が受け取ろうとしたこと」についてだ。


そもそも批判できるようなことではないのかもしれない。苦しんだ本人の代わりに誰かが代償を受け取ること。それを否定すればいじめ自殺や過労自殺に対して遺族が訴訟を起こすことは難しくなる。死亡保険金の受け取りだっておかしいじゃないか、という話にもなりかねない。けれど少なくとも、いじめや過労に関してならば「加害」や「管理不行届き」という罪状を見出すことができ、それに対する懲罰の意味合いを込めた賠償金があることに納得はできる。死亡保険金ならば家計の担い手の喪失に対する備えという保険金そのものの性質や、加入する本人の意志があるはずだ。だがこのケースについて、どこかにそうした納得の契機を見つけることはひどく難しい。


21番染色体トリソミーを抱えて生まれることは苦痛に満ちた短い生を生きることとイコールではない。ダウン症者が成人を過ぎて生きる可能性は近年ますます高まっている。彼がひどく苦しんだのは、彼がそのように生まれついたからであるように私には思える。こういう書き方では誰かが罪の意識を抱くかもしれないが、それは私の意図するところではない。私の文章が拙いだけだ。私はこの件に関わった誰一人責めようとは思わない。


訴えの後半が「生まれてきた息子の苦しみを目の当たりにせずにいられなかった精神的苦痛に対して」のものであれば、ニュースを読んで抱く印象はかなり違っていただろう。医師側に命ぜられた賠償金の支払いは、誤診に対してというよりも、専らそのためのものであるように思う。

大江健三郎/火をめぐらす鳥

すこし批評ということを意識し過ぎているのかな、という気がしたものだから、普段しているような読書をするつもりで一度読み通してみた。ひとつひとつの語句や文の意味にこだわり過ぎることなく、判断することなく、ただ目から入ってくる文字のすがたが自分のなかに立ち上げる感覚だけに集中してその微かなものをじっくりと味わうように。


 (私の魂)といふことは言へない
 その証拠を私は君に語らう


短篇は伊藤静雄「鶯」の一節から始まる。僕はその詩を幼い頃から大切にしていながら、これまで誰にもその詩への思いを語ることがなかった。物語仕立てのその詩の筋を紹介しながら、僕はその詩のもっとも印象的なフレーズに読者を導く。


 深い山のへり(・・)にある友達の家に遊びに行くと、いつもかれは山ふところに向かって口笛を吹き、鶯を呼びよせた。そしてその歌を聞かせてくれた。やがて友達は(まち)の医学校に行ってしまう。ふたりとも半白の頭髪をいただくようになって、町医者となった友達と再会したが、この話をすると、かれは特別にはそれを思い出さないと言う。(p.814)


 しかも(私の魂)は記憶する
 そして私さへ信じない一篇の詩が
 私の唇にのぼつて来る
 私はそれを君の老年のために
 書きとめた


小説のなかで「鶯」の言葉はいくどもリフレインして僕の言葉に割り込んでくる。常に傍点をまとう詩の言葉は読者の意識にわずかずつ着実に浸透していく。
執筆のきっかけを作ったのは京都のフランス文学者杉本秀太郎の本だった。その解釈が僕の幼い頃の解釈をすっかり覆し、僕を深く大きい寂しさにひたす。


この小説はとても不思議だった。これまでの短篇と同じように、物語が終わりかけた頃になって唐突に事件が起こり物語は暗転する。けれどこの小説に限っては、ホームに滑り込んでくる電車もそれにぶつかって倒れる僕も、頭から流れる血も何もかもが夢のなかの出来事のようにヴェールをかぶって幻想的な印象を残す。僕の問いかけにイーヨーはウグイスですよ、と澄み切った声で的外れな答えを返し、そして小説は始まったように終わる。


「素晴らしいな」と思わず呟いていた。


最初読んだときは僕がしきりに誤読という言葉を繰り返すわりに僕の解釈のどこにそれほど大きな誤解があったのか理解できず、何度か読み比べてようやく理解したそのことを書評にしようかと思っていた。それを止めにしてこの小説を身体に入れ、やがて湧き上がってくるはずの言葉を書評代わりに書きつけようかと思ってまた読み返してみた。その時にはつかんだと思ったはずのこの小説と感動はもとのようでなくなっていた。「鶯」の全体も読んでみた。それも無駄だった。むしろ元の詩から受ける感銘よりもこの小説にあらわれる断片の印象のほうが強いほどだった。


どうしよう、と思っていたときにマルゴ公妃の言葉がよみがえった。

「こんなにはかないものでなかったら、これほど甘美なものはないのだが」

その言葉で終わる書評を書くことにした。


                              ───中秋の名月の日に。

大江健三郎/マルゴ公妃のかくしつきスカート

歴史小説を書かない小説家のもとに、歴史に関する問い合わせが入ることがある。それは小説家が、ラブレーの研究に生涯を捧げた恩師、W先生の著作集の編纂に携わったことが知られているから。小説家に連絡を取ってきたのは、以前ロシアでのテレビ撮影でカメラを担当していた篠君だった。その人物にも、また自分である程度下調べをした上での質問にも好感を持った小説家は、親身に篠君の相談に乗ることにする。
質問はマルゴ公妃に関してだった。色情狂(ナンフォマニー)で、18年ものあいだオーヴェルニュの山のなかに軟禁された不幸な公妃。彼女のふくらんだ大きなスカートのかくし(・・・)には、死んだ愛人の心臓が十数個も入れられていたという。問題の部分のコピーを送ろう、という小説家の申し出に、その前に自分の話を聞いて欲しいと篠君は願い出る。
色情狂(ナンフォマニー)、という言葉が16世紀フランスの公妃と富良野のホステス、そして篠君が保護している池袋のフィリピン人女性を結ぶ。フィリピン人女性、マリアに恋着する篠君は彼女を数人の男に囲われるような生活から救い出そうと奮闘するが──。


色情狂、防腐処理を施した心臓をスカートの(かくし)に入れていたマルゴ公妃。部屋から見つけ出された9人分の干からびた嬰児。セックス。フェルナンデス青年とマリアの宗教的な交わり。マリアが絶対に手離さないほとんど空っぽのようなトランク。


刺激的なイメージはいくらも出てくるけれど、さすがにここまで自薦集を読み続けてきた読者には慣れがある。むしろ気になったのは、篠君の相談に乗り、意見や助言を与え、そのことを小説に描きながらも、小説家の側に精神的な動揺がほとんど見られないことだった。それどころか、自ら描く事件に何も感じていない気配さえ感じられる。


虚無的な不気味さを秘めた作品。
感傷のようなものはここにない。

大江健三郎/ベラックヮの十年

小説家はダンテの「神曲」からの引用を散りばめた一冊を仕上げた。その作品に向けられた多くの批評のなかにひとつ、胸にこたえる指摘があった。それはベラックヮのこと。小説家は批評に応えてベラックヮにまつわる忘れがたい思いを語り始める。


神曲」がいつかは読みたい本のリストに登録されたのはいつ頃のことだったろう。間違いないのは、それがホルヘ=ルイス・ボルヘスの愛する一冊であったことだ。ボルヘスの愛読書は「千夜一夜物語」と「神曲」。「千夜一夜」を3、4冊読んで先に進まなくなってから、「神曲」を手に取らないままこの齢まで来てしまった。それでもどこかで行き当たらずにはいないのが古典というもの。ずいぶん前に読んだマックス・ウェーバーの「職業としての学問」にはダンテの「神曲」から「すべての希望を捨てよ」の引用があった。


もしその人がユダヤ人であったならば、われわれはもとより「すべての希望を捨てよ」という。(「職業としての学問」p.20)


引用するために本をめくっていたら、村上春樹1Q84」のリトル・ピープルを思わせる記述にぶつかってしまった。ついでにこれも引用しておこう。


 最後に、おめでたい楽天主義から学問、つまりこのばあいでいえば学問による処世法を、なにか幸福(・・)への道のように考えて讃美する人々──こういう人々は、かの「幸福をみつけだした最後の人々」にたいするニーチェの否定的批判にならって、まったくこれを度外視して差支えなかろう。(同上p.42)


問題の部分は尾高邦雄による註にある。


「幸福をみつけだした最後の人々」は、ニーチェの『ツァラトゥストラはかく語りき』の第一部第五節にある句。「最後の人々」とは、かれのいう「超人」の反対概念で、矮小な人間を意味する。(同上p.77)


村上が最近出した本のタイトルを考え合わせるなら、リトル・ピープル解釈はニーチェによるのが正解ということになる。


話を元に戻そう。


ベラックヮは稀代の怠け者で、ウェルギリウスに導かれて煉獄への道を登るダンテを冷やかすように声を掛ける。そんなベラックヮへの愛着を小説家は隠そうともしない。文学は怠け者の仕事だ。ベラックヮの登場する場面を読めばきっと私もベラックヮが好きになるだろう。バートルビーオブローモフに好感を抱かずにはいなかったように。けれどそのせいで時々白い眼で見られたりするものだから、私は時折、「文学ってのはお前みたいにぐずぐずした奴に向いてるんだ」とどこで読んだかもう思い出しようもないような文言をはるかな記憶から呼び覚ましては自分を勇気づけたりしている。かと思えば、せっせと人のやる気を削ぐような怠け方をしている奴に苛立っていたりする。ずいぶん矛盾しているようだけど、こうした傾向はずっと以前から変わらずにある。どうしてなのかはよく分からない。


なんだか全然小説の話にならない。
小説家がイタリア語の個人教授を頼んだ若い女性に誘惑される話。それだけでいいでしょう。

大江健三郎/「涙を流す人」の楡

静謐に満ちた一篇。


舞台はベルギー、ブリュッセルまで小一時間ほどの大使公邸。文学賞を受賞した小説家と妻はその離れに宿を借りて一夜を明かす。翌朝、N大使夫妻と囲んだ朝食の食卓で、小説家は昨夜のパーティーでも感じとった鬱屈をN大使の表情から読み取る。東京から取り寄せた「ニーベルングの指輪」のビデオを見るのすらどこか仕事の一部であるような生活──。その疲労だけが鬱屈の原因であるように思われなかった。
妻はあなたの鬱屈に感染したのではないかと言う。小説家は公邸の庭に植えられたニレの木を楽しまなかった。大使夫妻はきっと小説家がよろこぶことを期待していただろうに。だがそれは、その木が小説家の記憶の奥深くにあるハルニレの木を思い起こさせるからだった。小説に書いてしまえば晩年の父の仕業に暗い影を投げかけてしまうかもしれない。そんな不安を呼び覚まし、直視することを避け続けてきたあの木を。小説家はその木の因縁をN大使に語らなければいけないのではないかと思い始める。


 そのうち僕は、さきほど妻にはいわば思いつきでそういったにすぎなかったけれども、記憶から抹消できぬあの木(・・・)の光景をこの年になってあらためて誰かに話すとすれば、確かにN大使こそ最良の聴き手だという考えに辿りついたのだ。
(中略)
 それがいまブリュッセル郊外のあの木(・・・)を思い出させる巨木のある屋敷で、文学に深い理解を持ちつつ外部でしたたかな経験を積んできたN大使に話すことで、なにかこれまでにない把え方が自分に可能であるような気がする……(p.754-755)


夕刻の大使公邸の居間で、小説家は大使を相手に幼い頃の思い出を語り始めた──。


ジョージ・ケナンのものらしい「強大なソヴィエトにおびやかされることをかさねてきたが、弱いソヴィエトこそさらなる世界への脅威なのだ」(p.750)というコメントが、冷戦終結後の混迷に満ちた世界情勢を不気味に予言している。それでも作品自体はひどく静けさに満ちていて、この作品の全体が弔辞であるようなN大使の人柄を思わせるところがあった。1991年11月発表の作品。


あの人によって自分の生に幾らかはタフな成熟がみちびかれたと、どうして言いえないだろう?(p.765)


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大江さん、この作品では小説家です。