大江健三郎/ベラックヮの十年

小説家はダンテの「神曲」からの引用を散りばめた一冊を仕上げた。その作品に向けられた多くの批評のなかにひとつ、胸にこたえる指摘があった。それはベラックヮのこと。小説家は批評に応えてベラックヮにまつわる忘れがたい思いを語り始める。


神曲」がいつかは読みたい本のリストに登録されたのはいつ頃のことだったろう。間違いないのは、それがホルヘ=ルイス・ボルヘスの愛する一冊であったことだ。ボルヘスの愛読書は「千夜一夜物語」と「神曲」。「千夜一夜」を3、4冊読んで先に進まなくなってから、「神曲」を手に取らないままこの齢まで来てしまった。それでもどこかで行き当たらずにはいないのが古典というもの。ずいぶん前に読んだマックス・ウェーバーの「職業としての学問」にはダンテの「神曲」から「すべての希望を捨てよ」の引用があった。


もしその人がユダヤ人であったならば、われわれはもとより「すべての希望を捨てよ」という。(「職業としての学問」p.20)


引用するために本をめくっていたら、村上春樹1Q84」のリトル・ピープルを思わせる記述にぶつかってしまった。ついでにこれも引用しておこう。


 最後に、おめでたい楽天主義から学問、つまりこのばあいでいえば学問による処世法を、なにか幸福(・・)への道のように考えて讃美する人々──こういう人々は、かの「幸福をみつけだした最後の人々」にたいするニーチェの否定的批判にならって、まったくこれを度外視して差支えなかろう。(同上p.42)


問題の部分は尾高邦雄による註にある。


「幸福をみつけだした最後の人々」は、ニーチェの『ツァラトゥストラはかく語りき』の第一部第五節にある句。「最後の人々」とは、かれのいう「超人」の反対概念で、矮小な人間を意味する。(同上p.77)


村上が最近出した本のタイトルを考え合わせるなら、リトル・ピープル解釈はニーチェによるのが正解ということになる。


話を元に戻そう。


ベラックヮは稀代の怠け者で、ウェルギリウスに導かれて煉獄への道を登るダンテを冷やかすように声を掛ける。そんなベラックヮへの愛着を小説家は隠そうともしない。文学は怠け者の仕事だ。ベラックヮの登場する場面を読めばきっと私もベラックヮが好きになるだろう。バートルビーオブローモフに好感を抱かずにはいなかったように。けれどそのせいで時々白い眼で見られたりするものだから、私は時折、「文学ってのはお前みたいにぐずぐずした奴に向いてるんだ」とどこで読んだかもう思い出しようもないような文言をはるかな記憶から呼び覚ましては自分を勇気づけたりしている。かと思えば、せっせと人のやる気を削ぐような怠け方をしている奴に苛立っていたりする。ずいぶん矛盾しているようだけど、こうした傾向はずっと以前から変わらずにある。どうしてなのかはよく分からない。


なんだか全然小説の話にならない。
小説家がイタリア語の個人教授を頼んだ若い女性に誘惑される話。それだけでいいでしょう。