大江健三郎/火をめぐらす鳥

すこし批評ということを意識し過ぎているのかな、という気がしたものだから、普段しているような読書をするつもりで一度読み通してみた。ひとつひとつの語句や文の意味にこだわり過ぎることなく、判断することなく、ただ目から入ってくる文字のすがたが自分のなかに立ち上げる感覚だけに集中してその微かなものをじっくりと味わうように。


 (私の魂)といふことは言へない
 その証拠を私は君に語らう


短篇は伊藤静雄「鶯」の一節から始まる。僕はその詩を幼い頃から大切にしていながら、これまで誰にもその詩への思いを語ることがなかった。物語仕立てのその詩の筋を紹介しながら、僕はその詩のもっとも印象的なフレーズに読者を導く。


 深い山のへり(・・)にある友達の家に遊びに行くと、いつもかれは山ふところに向かって口笛を吹き、鶯を呼びよせた。そしてその歌を聞かせてくれた。やがて友達は(まち)の医学校に行ってしまう。ふたりとも半白の頭髪をいただくようになって、町医者となった友達と再会したが、この話をすると、かれは特別にはそれを思い出さないと言う。(p.814)


 しかも(私の魂)は記憶する
 そして私さへ信じない一篇の詩が
 私の唇にのぼつて来る
 私はそれを君の老年のために
 書きとめた


小説のなかで「鶯」の言葉はいくどもリフレインして僕の言葉に割り込んでくる。常に傍点をまとう詩の言葉は読者の意識にわずかずつ着実に浸透していく。
執筆のきっかけを作ったのは京都のフランス文学者杉本秀太郎の本だった。その解釈が僕の幼い頃の解釈をすっかり覆し、僕を深く大きい寂しさにひたす。


この小説はとても不思議だった。これまでの短篇と同じように、物語が終わりかけた頃になって唐突に事件が起こり物語は暗転する。けれどこの小説に限っては、ホームに滑り込んでくる電車もそれにぶつかって倒れる僕も、頭から流れる血も何もかもが夢のなかの出来事のようにヴェールをかぶって幻想的な印象を残す。僕の問いかけにイーヨーはウグイスですよ、と澄み切った声で的外れな答えを返し、そして小説は始まったように終わる。


「素晴らしいな」と思わず呟いていた。


最初読んだときは僕がしきりに誤読という言葉を繰り返すわりに僕の解釈のどこにそれほど大きな誤解があったのか理解できず、何度か読み比べてようやく理解したそのことを書評にしようかと思っていた。それを止めにしてこの小説を身体に入れ、やがて湧き上がってくるはずの言葉を書評代わりに書きつけようかと思ってまた読み返してみた。その時にはつかんだと思ったはずのこの小説と感動はもとのようでなくなっていた。「鶯」の全体も読んでみた。それも無駄だった。むしろ元の詩から受ける感銘よりもこの小説にあらわれる断片の印象のほうが強いほどだった。


どうしよう、と思っていたときにマルゴ公妃の言葉がよみがえった。

「こんなにはかないものでなかったら、これほど甘美なものはないのだが」

その言葉で終わる書評を書くことにした。


                              ───中秋の名月の日に。