類義語

今日、国語の授業で「類義語」についての簡単な説明をしていた。
「簡単な説明」というと控えめな表現だと解釈される良心的な方々が多かろうが、その簡単さというのは実際生半可ではない。
「類義語ってのは似た意味の言葉ってことです。まあそのくらいわかっていればよろしい。後は問題を解きながら『類義語』というものを実践的に理解していきましょう。国語の試験問題で『この中から類義語を選べ』なんて言われたときに、『類義語』って言葉の意味がわからなければお手上げですからね。そういう最悪の事態を避けられる程度にわかればいいんです。」
おお、なんといい加減な。
一応、例として「ホテル、旅館、民宿」がテキストに載っていたので読み上げ、「ま、どれも旅行するときに泊まる建物ですよね。」などと言いつつスルーしているフリをしているのだが、内心には暴風雨が吹き荒れている。
建物の様式も格式も食事内容もぜんぜんちがうじゃないか。
こんなものは類義語じゃない。
というあたりから、私の暴走は開始されるのである。
「でも、不思議だと思いませんか?あ、全然思わない。いえね、僕は不思議だと思うんですよ。だって、そんなに似たような意味なら、おんなじ言葉でもいいんじゃない?って思うんですよ。なんで違う言葉として残っているのか、どうして統一されないのか。僕はそんなことを結構不思議なことだと思います。」
だって、人間てとにかく怠惰でだらしなくて、覚えることなんて少なければ少ないほどいいと思ってますものね。
多様性、という価値がどうして人間の中に生まれたのか、想像もつかないくらいに。
「文章を書く上でなら、このことは結構簡単に説明できるんですよね。文章というものは、同じ言葉を繰り返すことを嫌います。言葉を単調に繰り返す、もしもそれが同じ言葉を繰り返すことによって読者の感情を動かすことを狙う『詩』のような文章であれば話は別になってしまうんですが、けれど通常の文章では、やっぱりワンパターンな言葉遣いは嫌われます。」
それは「美的」ではないと判断される、という事実そのものがまったく奇妙だ。
「あのー、もう一つ、訳の分からない話をしてもいいですか?」
とりあえず目の前にいる素直そうな生徒に目を合わせて、同意を確認する。
彼以外の生徒からは期待できないけれど、私はこの話を続けたいのである。
そして私は、ホワイトボードに"mot juste"という仏単語を書く。
「これはモ・ジュストと読みます。フランス語です。適正な、言葉、というくらいの意味かな。ずーっと昔、フランスに生まれたフロベールという作家が、この言葉を強く主張したんですね。彼はこんなことを言いました。ある物事を表現するために適切な言葉は、たった一つしかない、と。似たような意味の言葉であっても、そのたった一つの言葉であるために、存在し続けるのだと。そして作家というものは、ある物事を表現するための、最適の言葉を捜し続けるのだと。長い長い探索の末に見つけた言葉を、作品の中に書き付けるのだと。変わった人ですよね。でも、こんな人がいるから、類義語は類義語として生き残っているのかな、と思います。」


私は小学生を相手に、何をむきになっているのだろう。