文学的身体の行方

──センセイ、唐突で申し訳ありませんが、文学について教えていただけないでしょうか。僕は小説を書きたいのです。小説という形式と、小説の語る物語。その二つについてお教えください。


「形とは何か?形は、ある芸術を生み出す、心と体の法則を身につけ、それを使えるようになる為の、最も効果的な練習の方法をまとめたものですね。」


──小説が……練習の方法だと仰るのですね。そして、身につくのは心と身体の法則だと。僕は身体は五感と指で十分だと思っていました。それではいけないのですね。では、物語についてはいかがでしょう。


「『人間とは何か、宇宙とは何か』。世界観、生命観に根ざしていますから。そっちが日本の武道の本当の流れでは非常に重要なんです。」


──やはり根源的なものを掘り下げなければいけないのですね。どうすればそういった世界観、生命観を身につけることができるのでしょうか。


「『こう行くぞ』なんて言っても、出来ない。知らず知らずのうちにその道に進んで行くんです。そういうものです。」


──そうですか、自ら意志して早道を行くことはできないのですね。けれど僕ももう31です。年金暮らしを目指して会社員になるか、とにかく命脈を繋ぐだけの仕事をしてひたすら文学に打ち込むか、選択の刻限は着々と迫っています。つい、創作理論や文章作法に目を奪われてしまいます。


「それはそれでいいんです。けれど、読み方を間違えると『極意にかぶれる』ということになって、昔は嫌われたんです。」


──耳の痛いお言葉です。


合気道も稽古する時に、気をつけないと「飛び越す」ことがある。初心者が、がっちりとした稽古を、行わなければならない時に、名人しか出来ないような、崩した稽古をやってしまう。結局、基本がめちゃくちゃになる。」


──ドストエフスキーから離れるべきではないのでしょうか。それでは、現代小説の動向からは目を背けるべきでしょうか。


「見たい人は見ればいい。しかし本当に何か道を一筋に追求している人にとっては、寄り道になることが多い。」


──小説は時代を描かなければならない、と言う人もいます。社会情勢はどうでしょうか。


「あまり上達はしない。余計なものを沢山背負い込んで行くだけです。」


──わかりました。
では、実際の執筆に関わるお話を伺いたいのですが、よろしいでしょうか。最近では作家の作法も変わりました。会社に通勤し、同僚作家たちと机を並べて決められたノルマを消化する、そんな作家も生まれているようです。僕はその話を聞いて、初めは嫌悪感しか抱きませんでした。でももしかしたらそれは、従来の作家像を覆す、新たな作家像なのではないかとも思うのです。村上春樹が「不健康であること」を作家の条件から外したように。


「いや、そうは言わないけれど。でも、一種独特な雰囲気というものがなくなると思う。だいたいね、何かが乗り移った、と思われるくらいでないと・・。簡単に言えばね、トランス(trance)に入れるかということだ。技術に真剣に打ち込み、トランスに入るようでなければならない。それにはね、技術に非常に熟練し、動かない信念を持つ必要がある。

信念と言ったって、頭の中で考えているんじゃない。合気道と自分の生き方と同化していると感じているようでなければ・・・・外から見たら憑き物がついていると思うくらいでなきゃ。」


──文学と自分の生き方が同化している……ような気はしています。こんな事を言うと笑われてしまうかもしれませんが、この間、少しだけドストエフスキーが取り憑いたような気分になりました。


「どのようなものにも、やり方のこつというものがあるでしょう。それは決まっているわけじゃない。大切な時にそれがふーっと湧いてくる。だいたい武道は、使うときに知恵がなくてはいけないといわれる。だけど通常言われる知恵とは違う。瞬間、こうした方がいい、ということが、自然に湧き出て来て、体が自動的に動くのが理想だ。
 日本の武道は、もともと、ほらあの『猫の妙術』に出てきたように、『為さずして成る』というのが非常に重要だと説かれていますね。植芝盛平先生は『動けば技が生まれる』と言われた。稽古は、そうなるような、道(法)を身につけられるように組織されていなければならない。」


──書けば小説になる……そんな境地があるのでしょうか。いえ、あるのですね。稽古の方法については、若干の心当たりがあります。相手になってくれそうな人たちにも。


「例えば合気道の後技の基本の稽古で、『(床に)手をつけて』というでしょう。なんで手をつけるかというと、相手を引っ張って崩すんじゃなくて、自分が低くなって手をつけるから、相手が自然に崩れてくる。そういうふうに、自分の身体を整えることによって、自然に技がかかる感覚を、体に覚え込む為です。相手と対立して技をかけるんじゃない。この訓練をするのが、形の稽古の目的です。その人の程度に応じた形を百回、千回、万回行い、体が自動的に動くようにならなければならない。するとその時の心が、ダーラナ(集中)、ディアーナ(統一)、西洋流に言えば『瞑想』、日本では禅と言うが(われわれは『安定打坐』というけれど)、五感感覚は最大限に活動しているが、それによって、より感じることには、一切心を惑わされない。そういう状態となり、動作も自然に湧き出てくるようになり、それが技になる。」


──自分の身体を整えることによって、自然に言葉が出てくる感覚。相手と対立して言葉を投げ掛けない。そのようにして小説を書き続けると、いずれは「五感感覚は最大限に活動しているが、それによって、より感じることには、一切心を惑わされない」、そんな信念を得ることになるのですね。より感じる心と、惑わぬ心。書き続ければ、いずれはそんな二つの心を同時に持つことが、可能になると仰るのですね。僕は、より高度な修練(小説)を積むための修練(小説)を、ひたすら続ける必要があるのですね。


 僕は、永遠に修練を積むのですね。


  (武道的身体論より、多田宏氏の発言を編集しました。)