ピッチャーの交替をお知らせします

私は「私とは一体何者なのか」という問いに取り憑かれたことがない。
一度たりとも、ない。
物書きとしてあるまじき態度かとも思うが、事実なのだから仕方がない。
私にとって、「本当のわたし」の所在は常に明確であった。
それは「孤独なわたし」である。
ご存知のとおり、私たちは社会化されるにしたがって様々な立場、状況に応じた「ペルソナ=仮面」を獲得する。
誰の前にもいない私は仮面をつけない。
仮面をつけていない状態の「素のわたし」ならば「本当のわたし」と呼んでも差し支えないだろう、とシンプルに考えていたのである。
「本当のわたし」は実際の私よりも少しだけ賢い。
なぜなら、行動よりも思索に多くの時間を費やすからである。
「本当のわたし」は実際の私よりも少しだけ鬱屈している。
なぜなら、話相手を持たないからである。
「本当のわたし」は実際の私よりも少しだけ処罰的だ。
なぜなら、他のペルソナを被った私に反省を促す役割を常に果たしてきたからである。
これまで、私はこのような「本当のわたし」を私の人格を構成する様々なペルソナの上位に置き、また「主たる書き手」として扱ってきた。
だが、「孤独なわたし」の繰り言もそろそろ終わりにしようと思う。
「子としてのわたし」「弟としてのわたし」「塾講師としてのわたし」「夫としてのわたし(5月に入籍する予定)」「友人としてのわたし」「弟子としてのわたし」その他大勢の「わたし」たちが「お前ばっか書いてんじゃねーよ」と不満の声を上げ始めたからである。
そして、「孤独なわたし」の言葉ばかりでは、読者の皆様に申し訳ないからである(負の連鎖が起こるし)。
最後に、私は事実としてまったく孤独ではないからである。
無論「孤独なわたし」を殺してしまうわけではない(間違いなく祟る)。
現場編もまだ続けるつもりでいる。
けれどそれ以外の場面では「孤独なわたし」は統率者としての立場を去り、一ペルソナとして時々控えめに登場する程度になる。
ペルソナ共和国の建国である。
律法はわずかに二つ。
「生きる」と「戦争はしない」である。
あ、それともう一つ。
「富安健夫(とみやすたけお)」という固有名を持つ肉体がこのブログにおける発言の全責任を負うものとする。
改めて、よろしくお願いします(ぺこぺこ)。
振り返ってみると、現実でもブログでも、よくもまあこんな私が見捨てられずにいたものだと思う。
ロシアには、「ユロージヴィ(聖痴愚)」と呼ばれる流浪の行者をもてなした家に、幸福が訪れるという言い伝えがある。
現存する伝統なのかどうかは知らない。
半ば狂気に侵されたものが口走る言葉には、時として神がかりに感じられるものがある。
ずっと、そういうことだろうと思ってきた。
だが、今は少し違う可能性を考えている。
聖性とは、ユロージヴィ自身の風体や発言ではなく、彼を迎えるものたちの心の中に沸き起こるものを指しているのではないか。
もしそうであるならば、少なくとも「孤独なわたし」に差し伸べられた数々の手は聖性を帯びている。
それはおそらく、すべての弱きもののための手である。