藤原俊成女/無名草子

 この世に、いかでかかることありけむと、めでたくおぼゆることは、文こそはべれな。「枕草子」に返す返す申してはべるめれば、こと新しく申すに及ばねど、なほいとめでたきものなり。遥かなる世界にかき離れて、幾年あひ見ぬ人なれど、文というものだに見つれば、ただ今さし向かひたる心地して、なかなか、うち向かひては思ふほども続けやらぬ心の色もあらはし、言はまほしきことをもこまごまと書き尽くしたるを見る心地は、めづらしく、うれしく、あひ向かひたるに劣りてやはある。
 つれづれなる折、昔の人の文出でたるは、ただその折の心地して、いみじううれしくこそおぼゆれ。まして亡き人などの書きたるやうなるこそ、返す返すめでたけれ。
 何事も、たださし向かひたるほどの情ばかりにてこそはべるに、これは、ただ昔ながら、つゆ変はることなきも、いとめでたきことなり。
 いみじかりける延喜、天暦の御時の古事も、唐土、天竺の知らぬ世のことも、この文字といふものなからましかば、今の世の我らが片端も、いかでか書き伝へましなど思ふ。


 <現代語訳>手紙というものは、どうしてこのようなものがこの世にあるのだろうと思われるほどに素晴らしい。『枕草子』に繰り返し書かれているので、また改めて言うことでもないのだが、やはり本当に素晴らしい。遠いところに離れてしまって、何年も会っていない人でも、手紙さえ読めば、まさに今向かい合っているような気分になる。会っていてはかえって思うほどには言葉を重ねることのない心情をあらわにして、言いたいことを細々と書いてあるのを読む心地というのは、愛しく、嬉しい。どうして直接会うことよりも劣っているなどということがあるだろうか。
 退屈なとき、昔知り合った人の手紙が出てくると、受け取ったときの気持ちが甦って、とても嬉しく感じられる。まして亡くなった人の書いたものであれば、返す返すも素晴らしいものだ。
 どんなことでも、ただ対面している間だけ感じることばかりだというのに、これは、まったく昔のまま、露ほども変ることがないというのも、とても素晴らしい点である。
 たいへん良かったという延喜、天暦の時代の出来事も、中国やインドといった知らない世界のことも、現代のわたしたちの些細な数々であっても、この文字というものがなければ、どうして書き伝えることができるだろうと思う。