無名草子九 夜半のねざめ(現代語訳)

九 夜半の寝覚


 『夜半の寝覚』には取り立てて素晴らしい場面もなく、またさして見事と言える箇所もないのですけれど、最初から主人公である中の上ただ一人のことを書き、一心不乱に、しみじみと情趣豊かに心を込めて創作していた様子が目に浮かぶようで、趣深くめったにない作品であるといえましょう。どこか心に満たされぬところがあり、あれこれと思い悩んでいるものにとって身に染みるように感じられたのは、中納言が、互いの身の上を知らぬままに中の上と契りを交わされ、けれど忘れられずに妹の中宮にそれらしき女性を出仕させてみたところ、すぐに違う女性だと気付き、動揺する様は驚きあきれるほどで、せめてあの一夜を過ごした女性に心当たりでもないかと尋ねてみたところ、
  漕ぎ返りおなじ湊による舟のなぎさをそれと知らずやありけむ
 (帰り着いた砂浜が、漕ぎ出したのと同じ湊だと気付かずにいるだけなのではありませんか。)
と言い出したのをお聞きになった胸のうちです。また中納言は結局、そうとは知らずに中の上の姉君である大君と結婚してしまい、その後あの一夜の相手がその妹君である中の上であること、また一夜の契りによって上が身ごもりご出産されていたことを知り、生まれた姫君を引き取ってお育てになっていたわけですが、二人の関係は露見し、中の上が父が隠棲していた広沢へいらっしゃるあたりの、
  立ちもゐも羽をならべし群鳥のかゝる別れを思ひかけきや
 (立っているときも座っているときも羽を並べていた群鳥は、このような別れを予想したでしょうか。)
などとあるところも、しみじみと感じられます。中納言が雪の夜広沢にいらして、空しく引き返そうとなさるのを、気の毒で心細いことだと思った少将の女房が、
  めぐり逢はむ折をも待たず限りとや思ひはつべき冬の夜の月
 (めぐり逢う時を待たずにお帰りになるのですか。思い続けるべき冬の夜の月ですのに。)
と慰めて差し上げると、
  今宵だにかけはなれたる月を見で又やは逢はんめぐり逢う夜を
 (こんな雪の夜にすらかけ離れて見ることのできない月に、ふたたびめぐり逢う夜などくるのでしょうか。)
中納言がお詠みになり、また同じく中の上に懸想した式部卿宮の中将が趣深くも尋ねておいでになったのを、よからぬ魂胆があるのでしょうと怪しまれる場面も。他にも、中の上が老関白に嫁がれる日が近付き、やむなく上と中納言が対面する場面では、中納言が引き取ってお育てになっている石山の姫君のことが話題に上ると、上が気恥ずかしそうにお顔を袖に隠し、頷いていらしたご様子が大変おいたわしく感じられました。それだけではなく、広沢をお出になった夜明け前のことなども。それから関白殿へお渡りになった後、上の思い通りにならぬご気分を慰めあぐねて、老関白が広沢へいらしてお嘆きになります。入道(中の上の父)もとんでもないことだと思われて、中の上の兄である宰相中将を使いに立てて叱りつけ目を覚まさせようとするのですが、上は頭をもたげてじっくりと聞くものの、言うべきことも見当たらずひどく頼りなげな様子で会話を続けることもなくごまかしてしまって、袖に顏を押し当てていらっしゃったのはおかわいそうでした。中納言が女一の宮(前の帝の娘)のもとにお通いになっていたときに、大君が、
  絶えぬべき契りに代へて惜しからぬ命をけふに限りてしがな
 (きっと絶えてしまう契りの代わりに、この惜しくもない命が今日で終わってしまえばいいのに。)
と詠んで、止めることのできなかった涙の様子もお気の毒です。また、式部卿宮の中将が尋ねていらしてやはりお会いになることができず、
  覚めがたき常に常なき世なれども又いとかかる夢をこそ見ね
 (正気でいることの難しい無常の世ではありますが、またこのような(中の上にお会いできるかもしれないという)夢を見てしまいました。)
と仰います。まさこ君(中納言と中の上の息子)が返歌に、
  かけてだに思はざりきや程もなくかかる夢路に迷ふべしとは
 (ほんの少しさえも思わなかったというのでしょうか。果てしなく続く夢路に迷ってしまうことになるとは。)
と詠うところ。また式部卿宮の中将が出家すると聞いて、まさこ君が
  これはうき夢をさますといひながら猶もうつつの心地こそせね
 (仏の道は憂き世から人を目覚めさせるものだと言いますが、あなたの決意を伺っても、私はやはり現実味を感じないのです。)
と詠むところはしみじみと情趣が深いように思われます。
 どんなことよりも素晴らしいのは、まさこ君と、冷泉院の女三の宮との間柄です。まさこ君が院から関係を咎められて落ち着かぬ思いをしている折に、女三の宮の女房である中納言の君に会って、
  吹きはらふ嵐にわびて浅茅生に露のこらじと君につたへよ
 (吹き払う嵐をつらく思って、荒れ果てた土地には露も残っていないでしょうと女三の宮に伝えてください。)
と仰ると、中納言の君が、
  あらし吹く浅茅がすゑに置く露の消えかへりてもいつか忘れん
 (嵐が吹き荒れてチガヤの端に置かれた露がすっかり消えてしまったとしても、いつか忘れてしまうなどということがあるでしょうか。)
などと言うあたりの場面。それから院のお怒りが解けて二人の仲が元通りになり再会して、
  ながらふる命をなどていとひけむかかる夕もあればありけり
 (永らえた命をどうして厭うことがあるでしょう。このような素晴らしい夕べもありうるのです。)
と申すと、
  消え残る身もつきもせず恨めしきあらば又うき折もこそあれ
 (もし生き残ったこの身が尽きずに恨めしいことでもあれば、また憂わしい時もあるのでしょう。)
と仰るあたりなど、つくづく愛すべきかわいらしいものです。
 女一の宮の思慮深い様子はご立派です。中の上は妄りがましい身体の関係を結んでしまったのがひどく残念でした。けれど分別のあるお方です。あれほど深く契りを交されて、互いを思いあいながら、姉上に憚って思い通りにならぬことがあり、中納言からの手紙に一行の返事も自分はすまいと決意しつつも、老関白の屋敷にお渡りになって後、たとえようもない中納言のお姿を見るたびに耐えがたくとも、その時々の返事は仕方なしにうやむやにしていると、平生思いを込めて書き交していたものですから、今後手紙が絶えてしまったならば、どれほど残念だろうと限りなく残念に思い知られたのも当然のことでしょう。そうしてだんだんと老関白にも打ち解け、姉上とも仲直りをされてからは、また書きにくくお思いになったのももっともなことです。入道が老関白に娘を与える許しをお与えになったときには、中納言にひたすら言葉を尽くして『連れ去って隠しましょう。』と求められ希われておいでで、身を裂かれるような思いをされ、命も絶えんばかりに思い沈みながら、気丈にもなびかず、自分にも他人にも悪い噂が立たないように気持ちを落ち着けて、およしになったあたりには、並々ならぬ気品を感じました。けれど姉君付きの弁の乳母や兄の左衛門督まで口出しする憎らしさには、先々の外聞や姉上に後ろめたい気持ちが恥ずかしいなどと、そこまで遠慮することがあるでしょうか。」などと言うと、また「だいたい中の上はひどく上品ぶっていますわ。どうしようもなく人が思い悩んでいるのに、からかったり、つれなくしたり、それに諦めかけそうになって、哀しんでいるようなのに、
  かぎりとて思ひ絶え行く世の中になど涙しも尽きせざるらん
 (これまで限りと諦めなければならない世の中に、どうして涙の尽きることがありましょうか。)
と言われても、
  君はさは限りと思ひ絶えぬなりひとりやものを思ひ過ごさん
 (あなたがそのように諦めてしまうと仰るのでしたら、私はひとりで物思いをして過ごしましょう。)
と、どれもますます哀しみを増すばかりでしょう。」などと言うと、また「そうは思いません。ただ中納言を限りなく深く思っているのでしょう。憂き世を知り始めたばかりのころには、あれこれと深い契りを交していらっしゃるお二人のことを、そのように思うのも当然のことではありますが、中の上のお気持ちには、恨めしいふしもあるお方なのだということを、まったくご存じないようですね。」と言うと、ほかにも「宰相中将という人がいらっしゃるのはとても素晴らしいことです。兄の左衛門督が老関白の文を持ってきて、『今日すぐにお返事を頂きたい。』と言ったのは如何なものでしょう。それに引き換え、数々の贈り物をすっかり運び入れ、『お返事は必ずしも今日でなくとも構いません。』など言っていたのは、つくづく嬉しいことです。そればかりでなく、趣深く稀なことの多い人です。
 見苦しいこと。左衛門督・弁の乳母の言い草。中納言の妻となった女一の宮の母、大宮の出過ぎた御心構えは疎ましいものです。また、中の上の娘が后の宮になり、尚侍殿(故老関白の娘)の御子の冷泉院皇子が春宮になるといったことが一度に重なったとき、中の上がいざり出て、
  寝覚せし昔の事も忘られてけふのまどゐにゆく心かな
 (寝ては覚めてばかりいた昔の事も忘れてしまって、今日の集まりに行く心持ちというのは、なんと素晴らしいものでしょう。)
と言われていたあたりはひどく感じの悪いものです。また中納言が『中の上を娶ったのが私であったなら。』と仰ったのも。宰相中将がいざり出て、
  武藏野のゆゑのみならずえだふかきこれも契りのあるとこそ見れ
 (枝が深いのは武蔵野のせいばかりではなく、契りがあるからでしょう。)
と詠んだのも気に入りません。それから中の上も好きになれません。冷泉院皇子が春宮になられた折、右衛門督の上(式部卿宮の中将の妻。春宮の叔母)ももっと喜ぶべきだと中納言がお思いになったのも見苦しく感じられました。また中の上がお亡くなりになり、式部卿の宮が法師になった後に、右衛門督の上は、中納言の思い人だからと、対の君などという名で呼ばれ、まさこ君達の後見などしているのさえ嫌ですのに、我が物顏で振る舞い、物事に文句をつけているのも嫌らしく思います。本来面倒を見るべき中納言がいるにもかかわらず、君達をしっかりと面倒見、人柄にも好感が持てますのに、人の前世からの因縁というのは、あきれるほど意外で残念なものです。
 それから中納言こそ気に入らぬものたちの中に入れるべきでしょう。中の上を人より先に見初めておきながら、決して浅いとは言えぬ契りをそれほど大事にもせず、たまたま行き会っても、それを限りなくうれしく素晴らしいと思う様子もなく、くだらぬ噂を真に受けて中の上を責めて困らせたりするのは、とても感じが悪いものです。中の上が朱雀院の喪中にこもっている最中ふと渡ってきたときには、中納言が冷泉院の御文への返事について無理に問いただし、あれこれと詮索するものですから、すっかり未練も失せて、老関白のいらした昔のことをなつかしく思い出す有様でした。」などと言うと、他の人は「中の上を返す返すも捨てがたいと思うのも、みっともなかったですね。」などと言い、また他の人は「とにかくこの物語で一番の難点は、中の上が一度死んでまた息を吹き返したという報いなのですが、前世からの因縁なのだと言われてしまえばどうしようもありません。その後、中納言に聞きつけられても、とくに驚くようなこととも思わず、大したことのない平凡なことだと思いなし、子どもを出迎えたりするのを、ひどく辛いことだと思って、そんな風になってしまった自分自身の法事を、とくに幸福とも思わずに隠れてやり過ごしておしまいになるのは、ひどく不吉なことです。その後まさこ君のことで思案に余って、冷泉院にお手紙を差し上げるあたりには、やはりしみじみとした情趣に溢れています。
  たぐひなくうき身をいとひ捨てしまに君をも世をもそむきにしかな
 (この上もなく憂鬱なこの身を厭い世捨て人同然の暮らしをしている間に、君からも世間からもすっかり離れてしまいました。)
と申し上げたのは辛く悲しい場面でした。せめて中納言に見つかることなく最後をお迎えになっていたら、普通にお亡くなりになったことにして済んだでしょうに。中納言も聞きつけて、驚くほど稀なことだなどとは少しも思わず、どこの世にも似たような例があるかのように、泣いたり笑ったりしてお話をなさるご様子は、めったにないあきれるようなところです。」と口々に言う。