無名草子十 濱松中納言物語(現代語訳)

 それから、「『みつの浜松(浜松中納言物語の異名)』は『寝覚』や『狭衣』ほど世間に知られてはおりませんが、言葉遣いを始めとして、何事も素晴らしく、しみじみとした情趣といい、哀しみといい、物語を作るのであれば、このように心引かれるものであってほしいと思われるほどのものです。総じて言動は洗練されていて、歌なども良く、中納言の行き届いた心配りはかくあるべしといったところで、まるで『源氏』の薫大将を思わせるほど素晴らしいお方です。中納言の亡き父、式部卿の宮が唐土親王に生まれ変わったという夢を見た夜明け前に、宰相中将が尋ねて来て、
  ひとりしも明かさじと思ふ床の上に思ひもかけぬ浪の音かな
 (一人で過ごすつもりのなかった寝床に、思いもよらず波の音が忍んできました。)
と始まり、中納言が唐に出立なさることなどもとても素晴らしい。唐で八月十五日の宴に『河陽県后の琴の音を聞かせよう。』と皇帝に仰せられるとお返事申し上げず、鮮やかに座りなおして、笏(しゃく。右手で持つ細長い板。)と扇を打ち合わせて、『あなたふと今日のたふとさや、いにしへもハレ』と催馬楽を歌っているところを、皇帝は后とお見比べになり、『皇后はこの世界でもっとも美しい女性である。中納言も日本でも指折りの方であろうし、太陽と月を並べて見る心地がして喜ばしくも素晴らしい。』と仰せられるあたりなどこそ誠に喜ばしくも素晴らしい。中納言と、皇帝の一の后の父大臣の五の君との逢瀬は慌しいものでした。五の君は中納言恋しさに寝込んでしまうのですが、父大臣に招かれて中納言がやってくると、煌びやかな玉の簪を挿し団扇を弄びながら、起きて見出すあたりはとても親しみを感じるところで、中納言が帰朝するというので別れを惜しむ際に、
  かたみぞとくるゝ夜ごとにながめても慰まめやは半ばなる月
 (形見と思って毎晩眺めたとしても、気持ちが慰められることなどあるのでしょうか。あの半月を。)
と詠んだのは心に染みました。筑紫に着いた中納言が五の君に
  あはれいかにいづれの世にかめぐり逢ひてありし有明の月を見るべき
 (ああどうすれば、来世のどこかでめぐり逢い、かつてのように有明の月を見ることができるのでしょう。)
と言っていたというのは、その時を待ち焦がれる心地が推し量られるようでとても趣深いのですが、その五の君が本当に
  この世にもあらぬ人こそ恋しけれ玉のかんざし何にかはせん
 (わたくしのそばにいらっしゃらぬ方が恋しいというのに、玉のかんざしが何にもなりません。)
といって髪を剃り衣を染めて、山深く引き籠っていたというあたりは、風情があって素晴らしいところです。中納言が唐に渡る前に関係のあった左大将の姫君は、落ち着きや深みなどのある方ではありませんが、
  いかにしていかにかすべき歎き佗びそむけば悲しすめば怨めし
 (いったいどうすればよいのでしょう。嘆き悲しんでばかりで、出家すれば悲しく、しなければ怨めしいなどとばかり思われるのです。)
  かゝれとも撫でざりけむをむば玉の我が黒髪のうきすゑぞ憂き
 (あんなふうに撫でていただけなかったからでしょうか、添え髪が落ち着かないだけで気持ちが沈んでしまいます。)
と言って、あれほど惜しむようであった髪を剃り落とし出家姿を整えるところでは、ひどく身につまされて悲しく感じられました。筑紫で中納言を迎えた太宰府の大弐の娘は、どことなく気の毒でいじらしいお方です。中納言の後朝の歌に『忘れずば葛の下葉の下風のうらみぬ程におとをきかせよ(お忘れにならなければ、恨めしく思わずにいられるくらいにはお手紙を下さい)』と返したところから始まって、
  契りしを心ひとつに忘れねばいかゞはすべきしづのをだまき
 (あなたとの契りを忘れられず、繰り返しこみ上げるこの思いはどうしようもありません。)
などと詠み、中納言に『連れ去って隠してしまおう。』などと言われて、勢いよく頷いていたことなども、若くてそれほど思慮深いところのない女性は、このような人がかわいらしいのでしょう。それから河陽県后の異父妹であった吉野山の姫君もとてもかわいらしい方です。中納言に迎えられていたところを式部卿宮(中納言の父とは別人。)にさらわれて体調を崩し、『故郷に知らせたい人があるか。』と尋ねられると、恋しさに堪え切れなくなったのか、『中納言にお伝えください。』と言ったのは驚くほどいじらしいことです。そうして中納言の許へ戻り、
  死出の山恋ひわびつゝぞかへり来し尋ねん人を待つとせしまに
 (探し求める人を待っている間に、恋しく思いながらも冥土の険しい山へ行って帰ってまいりました。)
などと詠んだのもいじらしいことです。」などと言うと、
「本当に何事も理想どおりで素晴らしい物語なのですが、それにつけても、これさえなければと思われる場面もございます。父の式部卿の宮が唐の親王に生まれ変わったと伝え聞き、夢にも見て、中納言が唐へ渡るまでは素晴らしい。ですが、その母である河陽県后が日本人の母を持ち、吉野の姫君の姉だなどというのは、あまりにも唐と日本が一つに入り混じっているようで、本当らしくありません。また、中納言が実直で行いの立派な様子には並々ならぬものがあると言いながら、正式な契りを結んだ人はおらず、どこでもただ夜だけの旅寝で終わってしまっているのは、ひどくちぐはぐに感じますし、河陽県后が忉利天(天上界における六欲天の一つ)に転生したと、空から声が聞こえたというのもまったく真実味がなく、更にはその后が吉野の姫君の腹に宿ったと、夢に見たところなど乱暴極まりなく、忉利天の命はとても長いと聞きますのに、いつの間にやらまたそのようなことがあろうと考えるのはひどく残念なことです。初めから大したことのない作品であれば何があっても気にも留めないのですが、素晴らしいので些細なことをこれほどまでに感じるのです。」などと言うと、