無名草子八 狭衣物語(現代語訳)

八 狭衣物語


 また、「幾多の物語のなかで、素晴らしいとお思いになられたものや、つまらなく感じられたものを教えてください。」と言うので、「それも見ずに語るのはなかなか難しいものですが。」などとためらいがちではあったけれど、「『狭衣物語』は『源氏物語』に次ぐ作品のように思われます。『少年の春は惜しめども留まらぬものなりければ弥生の二十日余りにもなりぬ。(少年の春はいくら惜しんでも過ぎ去っていくもので、狭衣中将も成人して日が経ち、今は三月の二十日を過ぎたところである。)』と勢いよく始まり、言葉遣いはどことなく優美で、とても上品ではあるのですが、取り立ててある場面が心に染み入るほど感動的だということもないのです。また、そんな筋立てにせずともよかろうに、と思われることも多くあります。狭衣の正妻となる一品宮(いっぽんのみや)の思慮深い様子からは、優しさというものがあまり感じられないのですが、とても上品でご立派な方です。物語にこういった方が登場すると、大抵語るべきところもなく、恋に落ちもせずに仏門に入ったりするものですが、ここはよいですね。狭衣の子を産んだ女二の宮が尼になったのもやはり、とてもありがたいことでした。女二の宮への未練を引きずりながらの一品宮との婚儀の翌朝、
  思ひきや葎の門を行きすぎて草のまくらにたびねせんとは
 (あれほど慕わしく思っていたあなたのお住まいを通り過ぎて、旅先でわびしい仮の宿りをすることになるとは、思ってもみませんでした。)
と書いたお手紙を女二の宮の住まう一條の院に届けると、
 『故里は浅茅が原となりはてて虫の音しげき秋にぞあらまし
 (あなたのおいでにならない一條の院はすっかり荒れ果ててしまいました。秋には虫の声がいっぱいに響くようになるのでしょうか。)
この度の婚儀は私も嬉しく思います。』と、父君である嵯峨院が代筆されたのは素晴らしいところです。
 女二の宮の母であった、大宮のお亡くなりになる場面は哀れみを誘います。女二の宮は懐妊した子の父が狭衣であることを頑なに秘し、嘆いた大宮が『そのような事を知って心を痛めぬものがいるでしょうか。』と言いながら、たちまち命を失ってしまうほど思い悩まれるというのは、ひどく哀れなことです。その大宮が生まれた赤子を狭衣の子と知り、
  雲ゐまで生ひのぼらなむたねまきし人も尋ねぬ峰のわか松
 (あなたは父を知らぬまま育つことになりますが、健やかに成長してゆくのですよ。)
とお詠みになるのは実に悲しいものです。女二の宮が少しの間も思いとどまることなしに、出家を決意なさったのも道理でしょう。狭衣が真に思いを寄せた源氏の宮は並々ならぬお方で、ひどく落ち込まれるようなことはありません。あれこれと思い悩むのが、人が苦しむ原因なのです。狭衣が物語で初めに情けをかけた飛鳥井女君(あすかいのおんなぎみ)はとてもお可哀そうです。狭衣の『明日お訪ねしようと思う。』という歌に、古今集の『世の中はなにか常なる飛鳥川きのふの淵ぞけふは瀬になる(世の中に変わりのないものなどあるのだろうか。飛鳥川の、きのう淵であったところは今日、瀬になってしまった。)』という歌を踏まえて『わたらなむ水まさりなば飛鳥川あすは淵瀬となりもこそすれ(渡ろうとする川の水が増えることもありますし、あなたが本当に来てくださるかどうかはわかりません。)』と詠うところもそうですし、騙されて筑紫に下るときに
  天の戸をやすらひにこそ出でしかどゆふつげ鳥よ問はばこたへよ
 (天岩戸を出た天照大神のように私はためらいがちに出て行くけれど、尋ねてくる人があれば鶏よ、そう答えておくれ。)
などと詠うところもおいたわしいものです。また、騙されていたことに気付いて身投げしようとする直前、持っていた扇に
  早き瀬の底の水屑となりにきと扇の風の吹きもつたへよ
 (私は流れの速い川で溺れ死んでしまったと、扇の風よ伝えておくれ。)
と書くところも。また、常盤でお亡くなりになった女君の日記は非常に趣深いもので、それほどの人にそこまで思われることこそ喜ばしいことだと思われるほどなのですが、狭衣に初めて見出されるところでは、仁和寺の威儀師と同じ車に乗ったりして、ひどく不愉快で嫌な感じがしますし、またその後の振舞いも、心ならずのこととはいえ、立派な恋人もいたというのに、よりによってその君の乳母の仲立ちで筑紫へ連れ去られてしまうなど、情趣も失せて、歯がゆいばかりの因縁でした。そうなってしまったなら、まだしばらくは命があったのですし、狭衣の誠意を最後まで信じ抜いてほしかったものです。とにもかくにも、残念な契りでしたね。
 そんな筋立てでなくとも、と思われたことをいくつか挙げましょう。狭衣大将の笛の音に引かれて、天稚御子(あめわかみこ)が天上から降りてきたこと。粉河(こかわ。和歌山県北部)詣でで、大将が法華経を読むと普賢菩薩が顕現なさったこと。源氏の宮の入内が噂された折、父大臣の夢の中で、賀茂大明神が宮に直接懸想文をお遣わしになったこと。夢はむやみに語るべきものではないというのに、あまりにも言いふらしすぎています。また、狭衣が斎院で琴をかき鳴らすと、突如風雨に見舞われ神殿から奇妙な音が響き渡るところ。そして何より、狭衣が帝になってしまったこと。返す返すも見苦しく驚きあきれることです。どんなに素晴らしい才能や才能に恵まれた人がいたとしても、御仏が説法なさるときのように、大地が震えたりなどするはずがありません。とても恐ろしく、現実味のないことばかりです。『源氏物語』で源氏の君が(帝位を退いたものが就くべき)院の位にお就きになったのでさえ、そうでなくともと思われたものですのにね。けれども源氏の君は正当な帝の血統でいらした上に、冷泉院が位にあらせられた時代に、実の父は源氏の君であるという、ご自身の境遇をお聞き及びになって、着任させたものなのですから、それほど非難すべきことでもありません。院や上皇太上天皇に準じた御位を、臣下が賜る例もないわけではありませんが、これは先例に則らぬかたちで行われているのでひどく見苦しいのです。狭衣は帝の御兄弟の御子ではありましたが、直系ではありません。天子の孫であり、また父大臣の代から家臣として役職を与えられてきたものが、見下げ果てたことをするものです。なんの学識もない女が書いた作品とはいえ、ひどく幻滅してしまいました。その父であった堀川大臣まで、狭衣が帝位に就くと堀川院と申したと言うのですからね。物語というものはどれも本当らしくはないと言いますが、これはさすがに限度を超えてしまっているようです。