ミラン・クンデラ/小説の精神

                   (ミランクンデラ『小説の精神』法政大学出版 から抜粋)


デカルトとともに考えるわれを一切のものの根拠とし、かくて宇宙にただひとり対決することは、ヘーゲルが英雄的と正しく判断した態度です。」(p7)


「人間は、善と悪とが明確に判別されうるような世界を望んでいます。といいますのも、人間には理解する前に判断したいという欲望──生得的で御しがたい欲望があるからです。さまざまなの宗教やイデオロギーのよって立つ基盤は、この欲望であります。(中略)
 この<あれかこれか>のなかには、人間的事象の本質的相対性に耐えることのできない無能性が、至高の「審判者」の不在を直視することのできない無能性が含まれています。小説の知恵(不確実性の知恵)を受け入れ、そしてそれを理解することが困難なのは、この無能性のゆえなのです。」(p8−9)


「唯一の「真理」にもとづく世界と小説の両義的で相対的な世界は、それぞれまったく異なった素材で作られているということです。」(p17)


「もし小説がほんとうに消滅しなければならないとすれば、それは小説の力が尽きてしまったからではなく、小説がもはや小説のものではない世界に存在しているからだ、ということです。」(p20)


「小説の精神は連続性の精神です。つまり、それぞれの作品は、先行する作品への回答であり、それぞれの作品には、小説の過去の経験がすでに含まれているということです。」(p22)


「つまり、小説はもはや時代精神と平和裡に生きてゆくことはできない、したがって、もし小説が未発見のものを今後も発見しつづけてゆくことを願い、小説として<進歩する>ことをなお願うならば、世界の進歩に抗してしかそうすることができないということです。」(p23)


「事実、私たちに審判を下すのはまぎれもなく未来でしょう。しかも未来にはそうする権限など何ひとつないことは確かなのです。(中略)つまり、私はセルバンテスの不評を買った遺産を除いて、何ものにも固執することはないのです。」(p24)


ゴンブローヴィッチは珍妙ですばらしい考えを持っていました。人間の自我の重さは地球の人口量による、というのです。デモクリトスは四億人のひとり、ブラームスは十億人のひとり、ゴンブローヴィッチ自身は二十億人のひとり、という次第です。この計算では、プルーストの無限──ひとつの自我、ひとつの自我の内的な生──の重さはますます軽くなってしまう。そして、軽さにむかうこの競争において、私たちはすでに致命的限界をこえてしまっています。」(p32)


「「詩人とは、母親に導かれた、自分が参入できない世界の前に自分の姿をさらす若者」という定義を私はノートに書きとめ、これを作業仮説にしてこの小説を書きはじめたのを覚えています。」(p37)


「もう一度ボードレールを引けば、人間は<象徴の森>のなかで道に迷った子供です。(成熟の基準は、象徴にあらがう能力です。しかし人類はますます若くなっています。)」(p73)


「(前略)それにひきかえ小説は、他のさまざまのジャンルを包含し、哲学や科学の知を吸収する傾向そのものを特徴とするその同一性(ラブレーセルバンテスを想い出すだけで十分です)を何ひとつ失うことなしに、詩と哲学とを統合することができるのです。(中略)つまり、<小説だけが発見できるもの>を、いいかえれば人間の存在を解明するために、あらゆる知的方法を、あらゆる詩的形式を動員する、ということです。」(p74)


「叙任された近代主義は、全体性という概念を追放してしまいました。これに反して、ブロッホはこの同じ言葉を次のような意味ですすんで使用しています。すなわち、極度の分業化と過度の専門化とがすすんだ時代において、小説は人間が生の総体との関係をいまだにもちうる最後の場のひとつである、という意味で。」(p77−78)


「小説がその主題を捨ててただ物語を語るだけに満足したら、小説は平板なものになってしまいます。これに反して、主題は物語の外側で独立して展開させることが可能です。主題へのこの取り組み方を私は逸脱と呼んでいます。逸脱とは、暫時、小説の物語を捨てることです。」(p95)


「小説は現実をまねようとは思わず、読者をおもしろがらせ、あっけにとらせ、驚かせ、うっとりさせたいと思っていたのです。小説は遊びのためのものでした。そしてそこにこそ小説の妙技があったのです。十九世紀のはじまりは小説の歴史における巨大な変化、ほとんどショックといってもいいものです。現実模倣の要請は、セルバンテスの旅籠をたちまちこっけいなものにしてしまいました。」(p107−108)


「孤独の呪詛ではなく、侵害された孤独、これがカフカの強迫観念なのです!」(p128)


「不易なものが、<詩>が「遠い遠い昔から」私たちを待っている、とヤン・スカセルはいいます。ところで、絶えざる変化の世界において、不易なものとはまったくの錯覚ではないのでしょうか。
 いいえ錯覚ではありません。あらゆる状況は人間の作ったものであり、それは人間の内部にあるものしか含むことができません。したがって私たちは、あらゆる状況(状況とそのすべての形而上学)は、人間の可能性として「遠い遠い昔から」存在しているのだと想像することができます。
 しかしその場合、「歴史」(不易ならざるもの)は詩人にとって何を表彰しているのでしょうか。
 奇妙なことですが、詩人の眼には、「歴史」は詩人自身の位置とパラレルな位置にあります。それは何かを勝手に作り出すのではなく、発見するのです。さまざまの未聞の状況によって、それは人間の何たるかを、「遠い遠い昔から」人間の裡にあるものを、人間のさまざまの可能性であるものを開示するのです。
 もし<詩>がすでにそこにあるならば、詩人に予見の能力を認めることは馬鹿げたことでしょう。詩人は人間のひとつの可能性(「遠い遠い昔から」そこにある、あの<詩>)を発見するだけであり、「歴史」もまたいつの日にか、これを発見することになるでしょう。」(p133−134)


「美すなわち、もはや希望をもたぬ人間に可能な最後の勝利。」(p142)


「いわば愚かさというものが例外的な何か、ひとつの欠陥か異常性であって、<人間の存在と不可分の状態>ではないかのようである。」(p143)


「私たちは若さのなんたるかを知ることなく少年時代を去り、結婚の意味を知らずに結婚し、老境に入るときですら、自分が何に向かって歩んでいるかを知らない。つまり、老人はおのれの老齢に無知な子供なのだ。この意味で、人間の世界は未熟の惑星である。」(p153)


「イロニーは人をいらいらさせる。といっても、イロニーが人をからかったり攻撃するからではなく、世界を曖昧なものとしてあばきだして、私たちから確信を奪うからである。レオナルド・シャッシャはいう、「イロニーほど理解しがたく、不可解なものはない」と。気取った文体で小説を<むずかしく>しようとするのは無駄である。小説の名に値する小説なら、どれほど平明なものであれ、いずれも小説と不可分のイロニーによって十分むずかしいのである。」(p154)


「キッチな人間のキッチへの欲求。それは、あばたをえくぼと化する虚偽の鏡を覗きこみ、そこに映る自分の姿を見てうっとりと満足感にひたりたいという欲求である。」(p155)


「これを要するに、叙情的精神とは、対象に無批判的に自己同化を行い、「人間生活の他の表示」、いいかえれば「イロニー、分析、理解、冒険、思考……等を掻き消してしまう」精神にほかならない。そして、いうまでもなくこの精神にクンデラが対置するものが、ほかでもない<小説の精神>なのである。つまりそれは、「大人の世界、いいかえれば真実、感情、人間の能力などの<相対性>が支配する世界でこそはじめて自己の展望を見出す」精神ということができる。」(p200「訳者あとがき」)