書き忘れていたこと

原爆について、もう一つ書かなければいけないことがあった。
終戦当時、原爆は各国の開発競争下にあった。
それはつまり、もしアメリカが一番乗りでなければ、どこか別の国が一番乗りしていたということだ。
そのどこか別の国は、きっとどこかの敵対国に原爆を投下していただろう。
日本が世界で唯一の被爆国であることは歴史的事実だ。
けれどそれは、状況と、各国首脳の先見性、戦略的視野、行動力、判断力、管理下にあった研究者の知識、熱意、狂気が関与した、偶然の出来事であったように思う。
アメリカにおいてそれが実現したことは必然ではなかった。
ドイツが、日本が、ロシアが、それを実現していてもおかしくはなかった。
第二次世界大戦参加国の、どの国に原爆が投下されていてもおかしくはなかった。
反証材料はいくらでも出てくるだろうけれど、私はこのように考えている。



2005年4月3日の内田先生のブログから抜粋する。


義務についての激しい使命感、それが「孤独な」少数者にのみ求められていることについての自覚。このような意識のあり方を仮に「選び」(élection)の意識と呼ぶことにする。「選ばれた」人間は、倫理的な責務を「すべての人間に対する義務」にまで拡大することを求めない。それは彼ら「だけ」に求められている義務である。彼らに課せられた責務は「譲渡不能」であり、「分割不能」である。そのように過大な責務を割り当てられているという事実が、倫理的主体を「高貴」なものたらしめる。

このニーチェの考想は、オルテガにも部分的には受け継がれている。
ニーチェオルテガの分岐点は、この「選ばれてあること」とは「他の人々よりも多くの特権を享受すること」とか「他の人々よりも高い地位を得ること」、つまり「奴隷」に対する「主人」の地位を要求する、というかたちをとらない点にある。それどころか、彼らにとって「選ばれてあること」の特権とは、他の人々よりも少なく受け取ること、他の人々よりも先に傷つくこと、他の人々よりも多くを失うこと、という「犠牲となる順序の優先権」というかたちをとる。



内田先生がかつて自らを「ナショナリスト」と呼び、今は「パトリオット」と呼ぶ理由を私はここに発見する。
日本という国が「高貴」な「倫理的主体」として振る舞い、それが64年間新たな被爆国を生まなかった要因の一つであること。
そのような理由でナショナリストであり続ける日本人が多数であるのなら、私もまたナショナリストの一人となっていたかもしれない。