わたしの帰納的な脳

 はじめて海外旅行をしたのは、19の春だった。


 なんとなく英語圏に行こうと思い、なんとなくアメリカは嫌だったのでイギリスを行き先に選び、なんとなく『地球の歩き方』に載っていた安宿を予約し、なんとなく格安チケットを手配して、大学に入って初めての春休みをロンドンと南イングランドで過ごした。


 今でも時々、どうして僕はあの時「外」に行こうと思ったのだろうか、と考えることがある。


 大学時代というのは様々な体験をして見聞を広めるものであり、見聞を広めるには「外遊」こそ最良の手段である、と思っていたから。海外旅行ブームだったから。海外体験は有意な象徴価値を持つ(もちろん当時はこんな言葉は知らなかったので、自慢できるかも、くらいの感覚でしょうか)、と思っていたから。英会話能力は必須だと思っていたから。微かなエリート意識(あったし、今でもあるんです)が、海外の文物を学び日本に還元する伝統的慣習を是としたから。


 そのどれでもあるような、ないような、どっちつかずの結論に落ち着くことが多い。はっきり言えるのは、「なんとなくそういうものだと思って」僕は旅に出た、ということだけだ。


 そのなんとなく行った旅行で、僕は様々な体験をした。何しろチケットを手配する段階で旅行会社と揉めたくらいだ。ロンドンに着いて予約していた宿に行ったら「予約なんてありませんよ」と言われ(でも空いていたので泊まれました)、イタリア人やらスイス人やらドイツ人やらフランス人なんかと一緒に大部屋で寝泊りしたり、ブラジル人に「ちょーむかつくってかんじー」と日本語で言われてゾッとしたり、ニュージーランド人に「ニュージーランドに戦後補償をもっとしろ」って迫られたり、「オレは人を殺して逃げてきたんだぜ」というドイツ人の隣に座っていたらガクガク膝が震えだしたり(ブラジル人は「またまた〜」って感じで全然信じてなかった)、別のドイツ人とタランティーノの映画のことで論争したり(「タランティーノなんてハチャメチャなだけじゃないか、僕は観終わった後に何か残る映画が好きだね」って僕が言ったら、「じゃあ『トゥルーロマンス』はどうだ。お前が白状しなければオヤジが死ぬぞって脅迫されるシーンなんて、スリリングで緊張感があって、ものすごくパワフルじゃないか。あのシーンはお前に何も残さなかったのか?」って言われてそうだなあと思い直したりした)、また別のドイツ人と一緒に『スターライトエクスプレス』っていうミュージカルを観に行ったり(セバスチャンはとびきりいい奴だった!)した。語学学校にも少し通ったけど、いきなり事務の手違いで初回の授業に参加できず、返金なし代替授業なしの対応に激怒して、ホステルに帰ってからスイス人に無茶苦茶愚痴ったり(怒ってるとなんであんなに滑らかに英語が出てくるんでしょうね)もしたけれど、そこで習ったケヴィンという講師は好きだった。英文法の授業で全問正解したときのTakeo, what a wonderful human being you are!という言葉と、英作文を提出したときのYou should write a book.という言葉(褒められるの大好き)、何かの拍子に出た「イギリスとは何かを知っているイギリス人なんて一人もいないよ」なんて言葉(名言だなあ)は今でもよく覚えている。その学校では何人か日本人とも知り合いになった。ドイツに留学中の怪しいダンスの達人、カナダ人と結婚してロンドンで働いてるんだけど労働ビザが取れないから語学学校に籍を置いてる人、ロンドンにある日本人向けのコミュニティペーパーを発行している会社でアルバイトしているブラックの彼氏持ちの女性(岩手出身)、語学留学中で僕を誘惑してきた女性(いたんですよ、これが。もちろんサインには日本に帰ってから気づきました)。その頃僕はホステルを出てイギリス人のじーちゃん(ホームズさん。実名)のおうちにホームステイしていたのだけど、僕は友人として泊めてくれるのだと思っていたら向こうは料金を払う宿泊客だと思っていて(僕はこういう自分にばかり都合のいい勘違いをしょっちゅうしでかすのだ)、気まずい夜を過ごしていた。語学学校で知り合った日本人の一人に近々ルームシェアを解消する人がいて、僕は逃げるようにその後釜に納まった。相手はコーディネーターを生業にしている女の人。生まれて初めて女性と一つ屋根の下で寝起きしたけれど色っぽい話は一つもなし。彼女の友人だった日本人の若手カメラマンは幼い頃両親が離婚していて、そのことで同情されるのが大嫌いだった(「だってさあ、離婚してる家庭なんて山ほどあるのに、すげえ悲劇みたいに扱うんだぜ!」)。そこにも長居はしなかった。二週間ほどで出て、一週間ほどB&Bに泊まり、イギリスでの滞在も残り一週間ほどになって、僕はイングランド南部をぐるりとバスで回ることにした。オックスフォード、バース、ブリストルプリマス、セントアイヴス、ブライトン、そんな町を巡った。オックスフォードではふらりとピアノの演奏会に入ったり(そこには明治大学(たしか)の助教授夫妻がいて、プログラムを見せてくれた)、暗い街を寝床を探してさまよったりした(駅に泊まろうと思ったら追い出された)。その晩なんとか探し当てたユースホステルでバスタオルを借りようとしたら1ポンドよ、と言われ、「え、じゃあいいや」って言ったら「これは秘密よ」と言って、そっと渡してくれた。(赤毛の、ステキな女の子だった。)そこには眼鏡を置き忘れて、取りに戻ることになった。バースに向かうバスの中で韓国人と、韓国系日本人の女の子と知り合ってお喋りした。彼が彼女と喋るときは朝鮮語で、彼女が僕と喋るときは日本語で、三人で話題を共有しようと思ったら英語しかなかった。ブリストルプリマスは港町だった。どっちかで地元の博物館に入った。セントアイヴスは一応の目的地にしていたところだ。ロンドンで入ったテートギャラリーの分館があって、そこに入った。海辺のレストランで食べたコーニッシュスコーンが、イギリスで食べたものの中で一番おいしかった。浦沢直樹の『MARTERキートン』を思い出した。太一とマイクと女の子は、この辺りの土手をダンボールの橇で滑り降りたりしていたんだな、と思った。吉本ばななの大ファンだという人に会った。泊まった部屋の机の引き出しに、聖書が入っていた。帰国の日が迫っていた。僕はブライトンまで一気に行くバスに乗った。ブライトンビーチでソフトクリームを食べた。レストランでワインを一杯とムール貝を食べた。山盛りで食べ切れなかった。給仕をしていた女の子が、給仕長に「じゃあ君は彼の向かいに座って」と言われていたのがおかしかった。ロンドンに帰り、飛行機に乗った。隣に座っていた藤田さんは日韓交流サークルを主催している東大生で、ソニーに就職することが決まっていると言っていた。すごく話し上手な人だった。イタリア人の女の子に自己紹介したとき、「フジタのフは、手のひらに置いた葉っぱを吹き飛ばすように言うんだよ、フゥジタ!ってね」という説明をしたら完璧に信じちゃった、とか、スロベニア人の友達がいて(その人は将来のスロベニアを背負って立つような人材なのだとか)、その人に頼まれてスロベニア人の前で話をすることになったとき、「ピーチコマーテリーノ!(スロベニア人は怒るときにこう言うらしい)」と言ったら会場中大爆笑だったとか、面白い話をたくさんしてくれた。


 そうして僕は日本に帰ってきた。手元にはナショナルギャラリーで買った十数枚のポストカードと、いくつかのお店で買った紅茶の袋や缶があった。


 旅行を終えてからも、少しは英語力がアップしたかな、とか、旅行中って結構退屈しちゃうもんだな、とか、たくさん思い出できちゃったなー、とか、そんな色々なことを折に触れては思っていた。


 そんな中に一つ、自分でもあまり認めたくない、悲しい感情がある。


 僕はどこかで「失望」していた。


 外国に行けば、異文化を体験すれば、僕は見たことも聞いたこともないような、とんでもない人間やものに出会えると思っていた。でも、僕は出会わなかった。出会っていたとしても、気づけなかった。


「なんだよ、人間なんて、どこに行っても一緒じゃないか。」


 僕は今でもそう確信している。


 そしてその確信が甦るたびに、少ししょんぼりする。