大江健三郎/怒りの大気に冷たい嬰児が立ちあがって
とにかくタイトルと冒頭がずるい。
「怒りの大気に冷たい嬰児が立ちあがって」
というタイトルで始まって、冒頭で
《
と来る。これだけで完全に持っていかれる。どちらもウィリアム・ブレイク「四つのゾア」からの引用で、思わず
──この本を本当に読んでもらえるとしたら、コンラッドの引用の一節だけだ
と言いながら自著の一ページを破きとって主人公に渡したアメリカの若い作家(さかさまに立つ「雨の木」)を思い出してしまう。
この作品のなかで大江健三郎は自らの創作の秘密を大胆に明かしている。
自慢半分に書かせてもらうと、例の「キウリ」、これは大江健三郎のかつての作品で描かれた「体を真っ赤に塗り、キウリを肛門に入れて縊死する人物」(p.419)に由来するものらしいのだけど、私はこのイメージをフォークナーの「サンクチュアリ」の有名な場面を反転させたものではないかと密かに推測していた。その推測はこの作品で裏付けられたと思っている。
いくつかの重要な箇所を抜書きしておく。
《人間は労役しなければならず、悲しまねばならず、そして習わねばならず、忘れねばならず、そして帰ってゆかなければならぬ/そこからやって来た暗い谷へと、労役をまた新しく始めるために。》(p.514)
「ジードの小説」(p.516)
「フランス文学科の学生であった間、また卒業してから四、五年の間、僕はそれが自分にとって結局のところは&learn&forgetの過程にすぎないはずだと感じつづけながら、しかし外国語を読む際には、フランス語のみを、それも辞書を引き書きこみをするために机に向かって読む、という態度をたもっていた。」(p.519)
「象徴的にいうならば、出生と逆方向の道を辿り(やはりマイナスの符号をつけた方向へ進む続きで)母親の胎内へ戻ろうとしていたのだ。」(p.529)
「赤んぼうの肉体をつくりだした、二種の血。僕の側の血と、妻の側の血。死と生への肉体の方向づけについて、母親は自分の息子に由来するものがあてにならぬと考えており」(p.534)
そしてこの作品には、私がかつて書き抜いた渡辺一夫の「狂気についてなど」の一節もある。
ウィリアム・ブレイク、マルカム・ラウリー、アンドレ・ジッド、アルベール・カミュ、坂口安吾、アンドレ・ジッド、村上春樹、渡辺一夫。
サマセット・モームの「絨毯の比喩」。