大江健三郎/静かな生活

大江健三郎ほど叩きづらい小説家も珍しいような気がする、と書いておきながら、その理由に書けなかったことがある。


その書かれなかった言葉は、もしかしたら読んでくれた人の脳裏をよぎったかも知れない。いまこの言葉を書こうとしながら、私はかなり強い抵抗が自分のうちに湧きあがるのを感じている。


イーヨーがいるからだ。


私は自分がなぜ大江健三郎のファンで尊敬の念を抱かずにはいられなくて、どんな名誉とも関係のない一人の小説家の作品として大江作品を読めないのか、その作品や人物に対して批判的な言辞を弄すことにこれほどの抵抗を感じるのか、自問自答するとだいたいこの答えに落ち着く。フェアではないと思う。だってそれは小説とは関係のないことだから。けれど私は間違いなく、音楽が好きで鳥の声を聞き分けるのが上手で、長じて作曲家になった大江光という実在の人物抜きに大江作品を読むことができずにいる。いま活躍している小説家でその作品を私小説と呼ばれて嫌がらない人物を私は西村賢太以外に思い浮かべることができない。それでもやはり、私は結局のところ、大江健三郎私小説作家として捉えている。


大江健三郎はひどい小説家だ。何しろ生まれてこようとする子供の死を願ったり、イーヨーの障害のない弟が病気になった時に、代わりにイーヨーが病気になっていればと思ったりする。「雨の木」を初めて見るかもしれないと思った瞬間イーヨーと一緒でなければと思うところなんて物凄くわざとらしい。マーちゃんには普通の幸せみたいなものを完全に諦めさせて、イーヨーの世話を一手に引き受けさせてしまった。


でもそんなひどい自分を小説に書けるのは大江健三郎だけだ。イーヨーをその手元へ運ぶことで運命がひとりの人間としての大江健三郎を呪ったのなら、運命は同時にひとりの小説家としての大江健三郎を祝福したのだ。祝福されることのない大勢の障害児の親たちのために。障害児の親となることのない人々のために。子供が遺伝的な問題を抱えていた小説家なら他にもいる。けれど世界は大江健三郎にこの仕事を託した。そういうことなのだと思う。


幼い頃に父親に言われたという「いのちは等価だ」という意味あいの言葉──。それは戦いの言葉であり、大江健三郎が自分自身に言い聞かせてきた言葉でもあるのだろう。そうやって全力でつき続けた嘘をイデオロギーとは呼びたくない。そう、私には価値観があり、良し悪しを判断し、いつだって選んでいる。大江健三郎について語っていると、私もずいぶん正直になる。


どう考えても今日は頭に血が上りすぎだ。このあたりで止めにしておこう。
なんだか小説とぜんぜん関係のない話ばかりしてしまった。
いや、大江さんあんまり女手うまくねえなとか思いながら読んでたんだけどさ。マーちゃんがホントにああいう文体の人なら申し訳ないとは思うんだけど。


そうだ、すっかり忘れてた。大江さんは「僕」を作家と呼ぶみたいだから、小説家ではなく作家と表記を改めることにしよう。
小説を書くのが小説家で、物語を書くのが作家。
小説は個人を描き、物語は運命を描く。
私はイサク・ディーネセンに拠ってこういう定義を用いる。
大江さんはサルトルなのかな?