大江健三郎/落ちる、落ちる、叫びながら・・・・・・

主人公の小説家は、まだ中学の特殊学校に通っていた息子をプールに連れて行っていた時期の思い出を語り始める。イーヨーはまるで泳げない。水に浮かぼうとする意志すらないようだと担当教諭からは言われている。
プールには奇妙な集団がいた。率いるのはかつて陸上のオリンピック級の選手だった朱牟田。足の指を切断する事故で選手生命を絶たれ、その後指導者に転身して地位を確立した。だがその集団を構成するのは水泳選手の卵などではない。三島由紀夫の思想に惹かれて集まり、風変わりな訓練を続ける「軍隊式の青年たち」だ。彼らは集団生活を行い、三島の思想について語り合い、肉体を鍛え、武闘訓練をし、スペイン語の勉強をしてもいる。いずれはメキシコに入植するのだという。だが彼らが何のためにそんな、外界から隔離されたような生活をしているのか小説では明らかにされない。朱牟田はメキシコに新天地を求めようとしているだけだと説明する。その説明を鵜呑みにはできない。
青年たちが受け継いだ三島の小説家への敵意、脱走事件、敵方だったはずの集団によるイーヨーの救出劇。それを傍観するだけだった小説家の無力とイーヨーの無邪気な決意表明を描いて小説は終わる。


すっかり感性が麻痺していて小説からの訴えは何ひとつ聴き取れない。なんとなく読んだ覚えのあるような微かな記憶と、かつての私にこの小説が残した小さな痕跡とを認めることはできたけれど、忘れ去っていた部分もある。


「むしろ青年らの全員が、たしかに極左、極右と思想的にわけられうるにしても、両者を結ぶものは、M思想(・・・)M行動(・・・)なのだ。Mさんの死によってかれらは──といってもかれらがすべてMさんのつくっていた私兵組織に属していた、というのではない。」(p.567)


三島は右翼だけでなく左翼も、しかもなぜかその両極を惹きつけていたようだ。どうにも不思議なことだけれど、極めてありそうなことのように思える。こうしてここに書きつけておけばもうきっと忘れないだろう。


小説家はプールの底に沈んでいく息子を見つめながら、ただブレイクの詩句を思い浮かべるだけだった。
”Down, down thro' the inmense, with outcry, fury & despair”
《落ちる、落ちる、無限空間を、叫び声をあげ、怒り、絶望しながら》(p.577)


ながい鬱からようやく脱けた回復の入口で書かれた短編の印象。