アルベール・カミュ/シーシュポスの神話

「真に重大な哲学上の問題はひとつしかない。自殺ということだ。」
という非常に有名な書き出しから始まるこの論考を初めて読んだのは学生時代のことだったろうか。


 もう内容もあまり覚えていないけれど、と本人は思っていても、数ページめくればすぐに似たような言葉を口にしたいくつかの場面が思い浮かぶ。それは記憶力の問題と言うよりも、書き手の力量の問題なのだろう。
 早合点はしてほしくない。
 だから誰かの口から自分の言葉が出ればそれが自分の力量の証明になるという話ではないのだ。
 私はこの問題について考えるとき、水槽のようなものを思い浮かべる。そこに言葉がぽとりと落ちる。落ちたばかりの言葉は会話の最中に口を突いて出やすい。いくどか繰り返せばその言葉はわずかに重みを増して、水槽の底にすこしだけ近づく。けれど大半の言葉は沈み切ることなく、また表面に浮かび上がってやがては蒸発してしまう。
 そうならない言葉がなぜそうならないのか、私にはまだうまく理由を説明することができない。


 文章を書いていると、もう自分がどこでその言葉を知ったのか手がかりすら掴めないような単語がひょっこり顔を出すことがある。記憶をいくら探ってみても自分が最近どこかでその単語に触れたような覚えはない。その言葉はただ出てきて、それ以外の言葉を締め出すように自分の陣地を踏み固める。じゃあ頼むよ、と私は他の単語の可能性を探ることをやめて文章の続きに取りかかる。いつの間にこんな言葉を仕入れたんだろうな、と不思議には思うけれど、だいたいは昔のひとのせいにして真剣には考えない。けれどそうした言葉が、水槽の底に沈殿するだけの重みを持った言葉であったことだけはわかる。ここで重みとは呼ぶけれど、その単語は深刻であったり難解であったりするとは限らない。ただ蒸発せずに沈む。その単語がひそむ言語野への回路が開かれる機会はごく限られている。


 本題にあまり関係のない話を続けてしまった。


 私はカミュの言葉を思い出していたのだった。カミュが自殺を語るこの「不条理な論証」のなかにこんな一節が出てくる。


「あるひとりの人間の自殺には多くの原因があるが、一般的にいって、これが原因だといちばんはっきり目につくものが、じつは、いちばん強力に作用した原因であったというためしがない。──中略──新聞はしばしば「ひと知れず煩悶していた」とか「不治の病があった」とか書きたてる。一応もっともに思える説明である。だがじつは自殺の当日、絶望したこの男の友人が、よそよそしい口調でかれに話しかけたのではなかったか。その友人にこそ罪がある。そんな口調で話しかけられただけで、それまではまだ宙に浮いていた怨恨や疲労のすべてが、一時にどっと落ちかかることがありうるのだから。」(p.13-14)


 こういう文章を読んで、自分はせめてその最後の引き金を引かない人になりたいと、できればそれまでも疲れや恨みを誰かに残さない人でありたいと思える時期があったことを遠く思い出す。


 この文章を書き始めた昨日の夜、私はひどく疲れていたのかもしれない。