大江健三郎/人間の羊

【読書メモ】「人間の羊」読了。あまりにも暗い部分を引っ掻いてくる話なので、何から書いていいのかすらよく分かりません。これは確かクンデラがどこかで褒めていた話だと思います。外国人兵、という表記が賞賛の的になっていました。日本人大江健三郎が書いていればアメリカ兵としか

解釈のしようがないのですが、あえてそう書かなかったことによってこの小説は解釈可能性を拡げ普遍性を獲得している、そんな内容だったと思います。ミラン・クンデラ私小説を書く人ですが、それが私小説と捉えられることに我慢できない人でもありました。私の小説はチェコの一状況ではないのです。

フランスの一状況ではないのです。クンデラの言いたいことは分かります。ですがこの小説に反応してしまったのは、彼が歴史に蹂躙された国に生まれた小説家だからなのでしょう。この小説に描かれているのは被占領国民の屈辱と無力です。昨日名前を出したせいか、小関智弘の「祀る町」に出てくる

トラウマティックな場面まで思い出してしまいました。同じ年頃の米兵に男根を突きつけられ、「しゃぶ・しゃぶ」と性的奉仕を要求される場面です。(要求された青年は頭突きを食らわせて遁走します。)こうして敗戦国に育った青年たちは反米ナショナリズムを連帯のよすがとしてきたのだと思います。

ぐーわー、って書いてる自分が鬱になってちゃ世話ないんですが、まあまあ、こういう話を語る以上避けて通れない道でもあります。そういう小説です。当時の青年たちの暗い情念をものの見事に掬い上げたんだと思います。

「飼育」のベースになったのは「ハックルベリー」じゃないかと書いたんですが、こう見てみると大江健三郎は不思議な軌跡をたどっています。フランスからアメリカへ、そして反米へ。自然の反動なのか批判を受けたのかは分かりませんが、短い期間のあいだに激しく揺れ動いています。

小説のクオリティとしてはひと段落してますね、これは。これから先でどう変化するかが見ものです。といったところで、本日の独り言は終了。


 たいした話ではないのですが、「犠牲の羊」という表現を見つけて思わずのけぞってしまいました。というのも、私は以前スケープゴートの意味で同じ言葉を使い、後から「あっ、山羊だ」と間違いに気づいたことがあるからです。小説は「人間が羊のように扱われる」話なのでここだけ山羊にしてしまうとかえって不自然になるのですが、まあ不思議な一致もあるものだな、と。「羊をめぐる冒険」も案外こんなところから始まっていたりして。想像は膨らみます。