大江健三郎/不意の唖

【読書メモ】「不意の唖」読了。「セヴンティーン」読書中。大江健三郎が完全にパンクでぼーぜん。うはー、大江健三郎がえらいひとだと思ってる人は特に「セヴンティーン」読んだほうがいいぞー。これはちょっと洒落にならないぞー。ちょっといろいろ原点すぎるぞー。読み終わったら丁寧に書こ。

さて、メモ再開。「セヴンティーン」が強烈すぎてしばらく言葉を失っていましたが、とにもかくにも言葉をひねり出していくことにします。まずは「不意の唖」から。舞台は「飼育」を思わせるような村、進駐軍の兵士たちが休憩を取るために立ち寄るところから物語は始まります。

いえ、ここも進駐軍ではなく「外国兵」と書かれていますね。では私も大江に倣って外国兵と書くことにしましょう。村人たちにはこうした状況に備えて取り決めていた事柄があります。そしてそれに従って迅速に行動します。外国兵たちはただ休息だけを求めている。集落長として応じた主人公の少年の父は

冷静に、鷹揚に対処します。トラブルの芽はあらかじめ摘み取られていたはずでした。けれど、ひそやかな悪意と敵意が、外国兵に混じって水浴びをしていた通訳の靴を盗み取らせてしまう……。そこから物語は破滅的な結末に向けて一直線に進んでいきます。不気味な静けさを湛えながら。

大江健三郎はそれまでの文体を完全に捨てています。端正で隙のない文章ですが面白みはありません。そうして捨てた個性のぶんだけ、物語は過激さを増しています。この小説は一言で言えば「戦争を継続する集落の話」です。戦争は終わった、いまさら抵抗を続ける意義はない、それができるだけの戦力もない

、けれど戦時中に鼓吹しされ続けてきた戦意は敵愾心はどこかでくすぶり続けている。その気持ちを外国兵に直接ぶつけることはできない。彼らにはすでに敗北したのだから。だが、あの通訳の男にならそれができる。物語に登場することのない犯人の、おそらくは言葉にもされなかった思いがこれです。

読みながら思い出していたのは、水村美苗の「日本語が亡びるとき」でした。孫引きですがいいでしょう。こういう文章です。
「植民地化された国の常として、現地の日本人にとっての最高の出世は、英語を学び、アメリカ人と日本人のあいだのリエゾンたることになってしまう。この場合のリエゾンとは、

支配者の命令を被支配者に伝えて、被支配者の陳情を支配者に取り次ぐ役目をになった連絡係である。」
通訳はまさにこのリエゾンとして、村人たちが押し殺そうとする感情の隔壁に亀裂を入れてしまいます。彼がそうした感情を理解していれば物語は平穏無事に終わったでしょう。けれどそれを許さないのが

大江健三郎ドラマツルギーです。展開、描写に不自然な点はまったくありません。あえて難点を挙げるとすれば、いくつかの決定的場面があまりにも簡潔に過ぎて物足りなく感じる点でしょうか。ですがこれも味と言ってしまえば言える程度のものです。読者によって判断は分かれるかもしれません。

またしても喫茶店でひとり「うわっ、これで話終わっちゃうんだ」と呟いておののく、不審な客はわたしでした。うーん、「不意の唖」だけで一日分書いちゃったなこれは。