大江健三郎/飼育

きのう二日分書いてしまったのでこれが今日の分、ということで。

【読書メモ】「飼育」読了。読み終えてから二時間近く経ちましたが、まだ後頭部の奥にざわめきが残っています。うん、いいねえ。腹立つよ。大江健三郎の「村=共同体=国家=宇宙」ものの原点なんですねこの作品は。「同時代ゲーム」ではスケールの大きさに圧倒されるばかりでしたが、これはまだ掴める

戦時下、村に一機の敵軍飛行機が墜落する。乗員二名は死亡。落下傘での脱出に成功した唯一の黒人兵士を村の大人たちは山から狩り出した。《町》は捕虜の即時受け取りを拒否し、村での管理を命じる。黒人兵士は僕と弟、猟師の父が住む養蚕小屋の地下に幽閉された。この物語は「飼育」の一部始終を語る。

ビクトル・エリセの「ミツバチのささやき」を、そして小関智弘の「錆色の町」を思い出させるような話ですが、「文学界」への掲載は1958年1月。両作品にはるかに先行しています。ベースになっているのはおそらく「ハックルベリー・フィンの冒険」。未読ですが、なぜかそんな気がします。

それ以前の作品でフランスフランス騒がれてうんざりしたのかな、と。

>足をつっこむとかなんとかいうのじゃなくてね、もうみんな首までどっぷりつかっているのよ。伝統的な文化の泥で泥まみれなのよ。簡単に洗うことはできないわ。(「奇妙な仕事」p.18)

>「移したところでどうにもなりはしないんだ」
「何が?」
「こいつらのことさ」
「どうにもなりはしないね」と僕もいった。「全くどうにもなりはしない」
「厄介なだけだ」
「ひどく厄介だな、ほんとに」(「死者の奢り」p.36-37)

私はこうした場面から若き大江健三郎青年のうちに滞っていた苛立ちとその後の学生運動に連なるマグマの胎動を読み取ります。伝統を学ぶことは先達に頭を垂れることです。けれどその先達は敗戦を招き、学生を戦場に送り出した張本人たちです。若者が敬意を保つことができたのは抑圧と言論統制に耐え、

それでもなお外国文学を講じることをやめなかった一部の講師だけだったのでしょう。若者はいつでも革新的でありたいと願うものでしょうが、この時代の左翼青年には敵わないのではないかと思います。嫌悪と怒りの総量が違いすぎますから。敵わないままであってほしいものです。と、完全に脱線しました。

やけに話が長くなってますが、ここは「飼育」を語る上でまったく重要ではありません。本来特筆すべき点は別にあります。まず文体上の進化があります。大江健三郎の文章には「拙さ」と捉えられても仕方のないぎくしゃくとした感じがあります。一見、外国語を学ぶのに熱心で日本語の読書を疎かにした

翻訳風の印象があります。私自身、大江健三郎は悪文の作家だと思っていました。ただそれを補って余りある内容があるのだと。「飼育」ではその欠点を詩的言語に転換するというやり方で克服しています。通常とは違う言葉の組み合わせで違和感とともに読者に読み進めさせてしまうだけの牽引力があります。

実を言うと私は詩的言語、とりわけ詩的比喩にはあまり感銘を受けません。全盛期の吉本ばななを読みながら「いつかこういうのが分かる日が来るんだろうか」と戦々兢々としていたクチです。それがいつの間にか宮沢賢治を案外気持ちよく読めるようになっていたりする。感性の発達は読めないものです。

「飼育」はほどよく詩的です。始まって間もなく適度に詩的言語をまぶすことで、その後の乱れを詩的に感じさせてしまう。時折弁護しようのない(動作を具体的にイメージできない)表現もありますが、この程度なら許容範囲内でしょう。と言うよりも、凡百の作品にはそもそもこんな不満を抱くことすらない

それまでの作品では冒頭だけで息切れしていたぬらぬらっとした文章(読点なしの緊密な文章、という意味です。森見さんの得意分野。)も終わりまで持続しています。これはスタミナがついたんでしょうね。性、排泄、政治、権力、被差別者視点、とそれまでの作品で描かれてきたテーマをすべて強化。

しかもそこに色彩と文章の底上げ、ドラマ的緩急と山場での疾走感、主人公の成熟という数多くの複雑かつ困難なファクターを加えながら一個の作品として完璧に仕上げています。これが学生時代の作品なんだからね。……でも、それだけならまだ佳作どまり、良質の短編で評価は終わるはずなんです。

それで終わりにできないのはそれまでの作品があるから。しかも「飼育」に至るまでの期間が異常に短いんです。巻末に初出一覧が掲載されていますが、東京大学新聞の「奇妙な仕事」が1957年5月、8月に「死者の奢り」と「他人の足」、それで58年1月に「飼育」と来てる。

石原慎太郎なんかもデビュー直後に作品を怒涛のように発表したそうですから、それは当時新人作家を世に出すための標準的な戦略だったのかもしれません。ですが、そのために書き溜める時間をたっぷり作っていたとしても、この一作ごとの長足の進歩には唸らずにはいられないんです。

あ、やっと頭のざわざわが収まってきた。こりゃ書きたいことすっかり書いてさっぱりしましたね。いやはや、若き大江健三郎の化物っぷりを堪能しております。でもねえ、いま朝日で連載してる漱石の「それから」はもっと腹立つんだなあ、これが。ぜってーマイッタしてやんねー、とか思ってます、一応。