サルトル・エロストラート・実存主義

二度寝めざして朝もはよから飲酒中。しかも酔っ払いのたわ言を書き散らすべくついっぷるに戻ってきました。昨日書き終えてから考えたこととさっき調べたことを中心に。

私は大江健三郎のファンなので、まああれこれ余計なことを考えずにたらたら書いていけばいいのかな、と。しかしねえ、自分がいま書いてる小説の内容を封印したままあれこれ喋ったり書いたりするのって結構面倒なんですよ。早く書き終えて次の小説に向かいたいんだけど……これがなかなかどうして。

さて、では改めて。昨日「死者の奢り」についてちょいと検索してみたら実存主義という言葉が出てきました。別にそんな思想的深みのあるような小説でもなかったんだけど……と若干もやもや。今朝になってようやく思い出してサルトルの「水いらず」を検索、そうそう「エロストラート」だ。

ここは敢えて確認せずに書くと、「エロストラート」は銃を手に入れた青年が武器を持ったことによる万能感とともに犯罪を画策しその実行を試みるもまるで計画通りに進まず失意のうちに逮捕される、という話です。どこか「罪と罰」を思い起こさせるような話ですね。

確かに「奇妙な仕事」と「死者の奢り」には同一のモチーフが現れています。仕事を開始し、中断され、そもそも無用の仕事だったことが明らかになる。イマージュという言葉も出てきますからサルトル実存主義との関連を読み込む読者がいたのも不思議はありません。

では実存主義とは何か、という問いに簡潔で明白な答えを返せる人はそれほど多くないような気がします。「実存(ex-sistence=外に立つ)」→「投企(projet)」→「政治参加(engagement)」→「自己の獲得」というのが基本的な流れですが、これはつまり……おっ。

なんか書いてるうちに思いついてきました。うちの駄ボラ生成装置かなり優秀です。これはつまり、「ほんとうの私なんていないよ」ってことなんですね。ソクラテスの「汝自身を知れ」からニーチェの「各人はそれぞれおのれ自身にもっとも遠い存在である(ドイツの格言だそうです)」まで、

「私とは何か?」という問いは哲学的系譜のなかで繰り返し問われてきました。(「アメイジングスパイダーマン」の最後の授業のシーンでも先生が言ってたりします。三田誠広芥川賞受賞作はその名もずばり「僕って何」。)けれどその問いに対してサルトルヘーゲルからの潮流に棹差して

「ないよ」って言ったんですね。あれこれやってみて色んな人に出会って、それで始めて分かるんだよ、と。そう考えてみるとなんだかフーコー内田樹もみんなおんなじこと言ってるような気がします。ですが実存主義という言葉を「じゃあホントの自分はいないってことなんだな」と硬直的に理解して

しまうと、たぶん実存主義について書かれたものについて十分に理解することがかえって難しくなってしまう。それは哲学が専門用語を厳密に定義することよりもむしろその適用範囲を最大化しようとする傾向を持つこと、またウィトゲンシュタインの「言語ゲーム」的性質を持つことに由来するのでしょう。

とゆーことで、私は実存主義という言葉は「だいたいサルトルあたりが言ってたこと」とゆーきわめて曖昧でふざけた理解に留めておくのが最善なのではないかと愚考する次第なのでありました。おしまい。