僕たちの失敗、か

 やたらと書いてしまったので、時間と気持ちに余裕のある方だけお読みください。



 世間知らずな自分に嫌気が差していた時期に、日経系列のサイトが発行しているNBonlineというメールマガジンを申し込んだ。知らない世界の話、というのはいつでも面白いもので、そろそろ人並みの世間知もついてきたかな、とあまり必要性を感じなくなってきた今でも引き続き一読者であり続けている。世間知と言っても、それが日経である以上、財界の利益を代表した立場から意見の多くが出ているのだろうな、と多少偏向やバイアスを脳内で修正しながら読む程度のものだけれど。


 中には茂木健一郎さんや池谷裕二さんといった脳科学者のコラムや、養老先生の虫捕り日記、社会情勢を扱った新書の書評もある。どうも僕の関心はその辺りに落ち着いてしまうらしく、経済関係の記事はタイトルだけでパスして読むのは書評だけ、なんて日も多い。


 先日、池谷さんの連載に興味深い記事があった。「タバコは肺ガンの原因ではない?」というのがそれだ。

 内容をざっと要約すると、こういう事になる。

 2008年5月に世界の3つの研究グループによってほぼ同時に研究報告がなされた。第15染色体上の遺伝子「ニコチン受容体」と肺ガン罹患率には有意な関連があり、肺ガンの14%はこの遺伝子の特性によって説明できる、とする内容である。

 ところが結論は割れた。ニコチン受容体によって依存が強まり、ゆえに喫煙量が増えて肺ガン発生率が高まる、とする研究者と、同遺伝子と肺ガンの発生率には関連があるが、喫煙そのものは無関係である、とする研究者とに分かれたのである。

 池谷さんはここから、因果と相関、という言葉を使って、科学情報に触れる上での心得を説く。核心と思う箇所を引用しておく。


>こうした意見の解離は、サイエンスの「営み」を考える上で、とても興味深い。つまり、科学(特に自然科学)には「因果関係は証明できない」という体系上の欠陥がある。この点は誤解をしてはならない。科学的に証明できるのは「相関の強さ」だけである。これは逃げられない事実である。


 科学者としてあまりにも大胆な発言!と驚嘆せずにはいられなかった。僕は興奮して、反射的にコメントを書き始めた。うろ覚えになるが、確かこんなことを書いたと思う。


「>科学(特に自然科学)には「因果関係は証明できない」という体系上の欠陥がある。

 この一文に、本当に驚きました。科学・健康関連情報一般に通用する、重要なメディア・リテラシーだと思います。こうした態度が全体に広がれば、例えば地球温暖化問題における「太陽活動説」や「温室効果ガス説」の混在(対立?)状況にも一石を投じるのではないでしょうか。」


 正確なコメント内容を書けないのには、理由がある。

 掲載は、された(と思う)。ただ、ほとんど原型を留めないところまで書き換えられていたのだ。このような内容にすり替わっていた。


「潜在脳力とか仕事術の話から離れているように思ったが、前回までに比べると(良い意味で)慎重に書いておられる印象を受けた。確かに、バイオとか医学系のサイエンス、それから心理学とか経済学とか、扱う対象が複雑になればなるほど、因果関係を示すのは困難になる。その意味で、科学的に証明できるのは「相関の強さ」だけ、という言い方もできるとは思う。しかし、もっと単純な(に)対象を扱っている場合は、因果関係を証明することはできると思う。因果という言葉の定義の問題があるが、ここでは、メカニズムが明らかで完全に再現性がある、というような意味である。たとえば「首を切ると死ぬ」という因果関係は誰の目にも明らかだが、「梅干を毎日食べると長生きする」みたいなことは相関を示すことしかできない。タバコの話にしても、地球温暖化にしても、政治的な意図を持った人々が、科学的な相関データに適当な想像力を加えて因果関係をでっち上げている、という部分があるに違いないと思う。相関と因果関係の違いは大いに強調されるべきだ。十分条件と必要条件の違い、というようなことも、周知徹底を図るべきと思う。」


 前もって言っておくと、これが僕の書いたコメントを改変したものである、という証拠はない。共通するのは「因果と相関」や「地球温暖化」くらいのものだが、前者はエントリ自体のテーマだし、後者は陰謀論的な文脈に閉じ込められてしまっている。コメント欄は承認制になっているから、単に僕のコメントは承認されず、誰か別の人のものが掲載されているだけ、という可能性は大いにある。

 それでも「あー、これ多分僕のコメント書き換えたんだろなー」と思うのには、一応いくつか根拠らしきものがある。

 まず、投稿日は同じである、ということ。記事の初出は6月2日で、僕がコメントを書いたのは12日。改変済みコメントの投稿にも同じ日付がある。議論を呼びそうな内容だと思うのだが(少なくとも僕はびっくりしたし)、このエントリには一件しかコメントが付いていない。掲載から十日経った同じ日に、偶然2つのコメントが投稿され、一つは掲載したけれど一つは承認しなかった、というのは少し不自然な気がする。

 もう一つは、どうもこの記事自体、あまり反響を呼びたくない、とでもいうような配慮が見え隠れしている点である。NBonlineのトップページには検索窓が付いていて、そこから「池谷裕二」で検索すると池谷さんの連載記事のタイトルが並ぶ。

 だが、【5】タバコは肺ガンの原因ではない?というタイトルだけがリストアップされない。この記事を読むためには他記事の下部にある過去記事一覧を経由しなければいけなくなっている。

 更に言えば、コメントの承認までには奇妙なタイムラグがあった。池谷さんが次の記事を執筆するまで、改変コメントは表示すらされなかったのだ。単に担当者が放置していた可能性は拭いきれないが、他の筆者のコラムでは、コメントは次の記事を待たずに掲載されている。コメントはコメントを呼ぶ。増えないように必要な配慮をした、という推測は捨てきれない。


 以上に挙げた内容に納得されない向きには、以下の文章は寂しい妄想として閑却されても仕方がない。僕自身、そんな風に思わないでもないのだから。


 さて、ここから先は少し回り道になる。


 新聞はなぜ読者投稿を受け入れる必要があるか、というテーマで書かれた文章を読んだことがある。ずいぶん昔のことなので、どこで読んだのかは全く思い出せない。たしか、こんな論旨だった。


「なぜ新聞には読者欄があるのか。記者はいやしくもプロの書き手である。識者や文筆家もまた、その専門知識や筆力によって、読者を教導すべき立場にある。こう言って語弊があるならば、読者に判断材料を提供するに相応しい立場にある。だがそこに、素人の書き手のものが紛れ込んでいる。読者欄である。単純な不平不満、ほのぼの話、滅多矢鱈な正義漢、もちろん例外も多いが、正直どうしてこんなものに紙面を割くのか首をひねるばかりの有様だ。それもおそらくは、記者が校正してようやく読むに耐える質になっているに違いないのである。
 だが、新聞は読者欄をなくすことはない。なぜなら、彼らは「読者を、ひいては国民感情を代表して取材、編集、報道する」という大義名分を捨てることができないからである。読者欄は彼らの大義の裏付けとして機能している。」


 こんな朧な記憶を持ち出してきたのは、「読者欄とは選別され、書き換えられた投書の場所」であることをすっかり忘れて新聞系メディアにコメントを投じた、自分自身を戒めるためだ。でなければ、改変されたコメントを見てあれほど気持ちをかき乱されることもなかったろう。

 しかしまさか、WEBで同じことをしているとは。新聞であれば葉書か封書で意見を書く。それには強い動機が必要だ。だが、WEBのコメント欄はハードルが低い。キーボードならば書くのに時間も掛からない。葉書や切手を買う手間も、ポストに走る労力も必要ない。結果、新聞とは比較にならない数のコメントが殺到しているはずだ。それを一々チェックするなんて……いや、今ならEメールでも投稿することができるようになっているのか。読者欄の担当が業務の延長として引き受けている可能性もある。ただ新聞社のWEBサイトなら大体が会員制だし、それで閲覧者数もある程度歯止めが掛かる。実名で登録していれば、コメントするのに心理的抑制が働くかもしれない。それなら、多少の数はあっても新人記者の文章修行ぐらいにはなるのかもしれない……。記者というよりも編集者か。著名人にコラムを依頼してそれにあれこれと注文を出すには、ある程度の知識も必要になる。科学部の記者兼編集者といった役どころの人物……。


 僕は作家志望の人間なので、おそらく自分の文章を改変されることに強すぎる抵抗感を持っている。正直、改変コメントを見たときは「カチン」どころか「ムカッ」ときた。いくつか独り言のような罵言も吐いたろうが、とりあえず感情の波が過ぎた今、繰り返す必要もない。

 だが冷静になったつもりで読んでも、やはりこの改変の仕方はおかしい。

 第一、池谷さんへの注文とコメントした僕自身への回答らしきものが、ごっちゃになっている。人はこんなに説明的なコメントを付けるものだろうか、という疑問は兆さなかったのだろうか。

 読者コメントの陰に隠れて著者に注文を付ける編集者、というのも妙な話だ。

「読者さんからもこんなコメントがありますから、もう少し実用的でビジネスパーソンが喜ぶような方向で書いていただけませんか?」

 池谷さんに対しては丁重な態度を崩さずに軌道修正を誘導しながら、読者コメントそのものを改変することで「いや、僕の意見なんかじゃないんです。読者さんが、ね。」という言い訳の余地を常に確保する。

 姑息である。


 ここまで書いておきながら今更、という気がしないでもないが、今では別に怒りも感じなくなってしまっている。スポンサーや上司の顔色を窺わざるを得ない、企業人の悲しみだってあるんだろう。いや、なくたって構わないんだ。温暖化にしたって、揺るぎない事実はここ数十年の気温上昇だけで、今後に関しては予測に過ぎない、ということだっていい。それを口実に金儲けを企んだり新興国の発展にブレーキを掛けたいと思う勢力がある、というのもありそうな話だ。無謬の正義を手に入れたような顔をして他人に説教するような輩には、面倒だけれど近寄らなければそれで済む。数十年経ってから若い世代に笑われることになったって、甘んじて受けようじゃないか。僕は無力な一介の市民で、温暖化対策に熱心なわけでも、完全に否定的なわけでもない。どっちが正解になるかなんてわからない。IPCCの報告書に実際目を通したわけでもない。ただほんのちょっとだけ「みんな熱心だなあ」とか「商魂逞しいねえ」なんて思うだけの話なんだから。


 話が逸れた。


 素人が多少コメントを書き換えられたくらいでギャーギャー言うのもみっともない。だから、コメントを書いたのが誰だろうと問題はないし、日経グループの姿勢を問うなんて大げさな話をするつもりもない。

 しかし、一抹の不安はどうしようもなく残る。

 繰り返すけれど、僕は作家志望の人間だ。言論の自由、ということに関しては幾分、見識を持っておくべきと思っている。そして言論の自由を支えるのは、報道と出版の自由であるとも思っている。誰も知らない真実を、自分ひとりが握ると思うほど楽天的な人間ではない。だが、それを守る状況は確かなものだろうか。いざ自由が侵されたとき、適切な方法で抵抗できる人間は存在しているだろうか。


 仮に、頭の回る政治家が登場したとする。

 これはすぐ起こる危機ではない。何しろ「汚職のない政治家なんて、仕事をしてこなかった政治家だけだ」(@田原総一郎)というぐらいだから、大抵の政治家はメディアに尻尾を掴まれて、銃口を突きつけられているも同然なんだろう。

 ところが、清廉潔白で仕事のできる政治家が登場してしまう。

 そんな政治家が、言論の自由とは権力を罵倒するためのものでしかないといった、程度の低い認識を持つメディアを問題視したとする。放送に関する法案を整備し始める。メディアは猛然と反発する。国民を盾にして、憲法を盾にして。

 そんなときに、政治家が言う。

「あなた達の言う国民とは、どこにいるのか。あなた達に一番都合のいいインタビュー映像を撮らせた人たちのことか。あなた達にいくら投書を書き換えられても文句を言わない人たちのことか。法律とは共同体を守るためのものだ。あなた達は日本に何をした。権利意識ばかり肥大して義務を疎かにする、モンスターを大量生産しただけじゃないのか。モンスターは共同体を破壊することはあっても、そこに寄与することはない。発生を抑えることは国益以外の何物でもない。法の改正以上の打開策が、どこにあると言うのか。」

 何しろ清廉潔白なので、足を引っ張ることもできない。メディアには手も足も出ない。僕はきっとテレビの映像を見ながら、ため息をつくことしかできないだろう。


 そんな不安や危機感と、杞憂だと思いたい気持ちがあって、目の前で言論の自由がなし崩しに壊れているような、あるいは妄想が止まらなくなっているような、ふらふらとどうしようもない心持ちがする。


 「ではどうすべきか?」

 僕はそう考えることができなかった。コミットメントそのものがあまり得意ではない、という性格もある。けれどどちらかと言えば、どこか他人事のような意識があったのだろう。表現の自由が損なわれ、結果自分が今持っている、今恩恵を受けている何が失われることになるのかといった、実際的なリスクに対する想像力が欠けていたのだろう。


 それを、教えてくれる出来事があった。

 内田先生のブログでの、ちょっとした事件である。


 7月9日、内田先生のブログはコメントとトラックバックの受け入れを完全に停止した。ここ数ヶ月かなり荒れていたから、やむなし、の感が強い。けれどどこかに「意外だ」と思っている自分がいる。コメント欄を閉じること、あるいは特定の人物のコメントを停止すること、それは特段難しいことではない。内田先生であれば、「フジイ君、コメント欄閉じちゃって」とIT秘書の方に一言連絡を入れれば済むことだ。しかし、それは長い間なされなかった。どうして「今」なのか。

 散々に考えて、僕のせいなんだな、という事になった。


 内田先生はコメント欄でコメンターと直接対決することはなかった。返答すべき事柄があれば、エントリを立てて返答なり反論なりをしていた。僕は時々コメントをつけて、直接返事をもらうことはなくとも、その後のエントリで「うわっ、叱られた!」とか「おお、答えてもらった!」とか勝手に思い込んでは、その答えの意味を更に深く感じ取れるように、様々な方面に考えを伸ばしていった。

 コメント欄は、ずっと荒れていた。

 僕は何よりも、内田先生のブログ執筆意欲が落ちては困る、という思いからコメント欄の正常化の必要を感じた。いや、正常化という表現は正しくない。ただ致命的なコメントには、内田先生がコメント欄を閉じざるを得なくなるようなコメントには反論しようと思っていたのだ。

 そんなコメントが、最近はちょくちょく出ていた。

 具体的には、内田先生が勤務する神戸女学院大学の生徒さんや、OGの方々を愚弄するような内容のコメントだ。

 これは明らかにマズイ、と思った。内田先生がブログを書くのにはいくつか目的があるんだろうけど、「神戸女学院大学の入学志望者数を増やすこと」というのはかなり上位にあるはずで、その為の広報活動には労を惜しんでいなかったことはブログにも明らかだ。在校生や卒業生がコメント欄を目にして心証を害され、愛校心を損ねるようなことになってもアウト。学長から「ああいったコメント欄を放置されていては、困りますね。」とにこやかに忠告されてもアウト。

 そんなコメントが書かれていて、それがどういう結果を導く可能性があるかわかっていて、いやわかっていなかったのか、後から考えたことをずっと前から気づいていたことのように記憶を改竄してしまったのか、そこらへんはもうよくわからなくなってしまったけれど、とにかく冷静に考えればマズイのは明らかなコメントがそこにあって僕がどうしたのかと言えば。


 ボンヤリしていたのだ。


 コメント欄がどれだけ罵詈雑言で埋め尽くされようと放置していたんだから、もう何が書かれようと内田先生はコメント欄なんて見てもいないだろうと高を括っていたのだ。


 バカモノ。


 かくして、コメントもトラックバックもできなくなった。残された手段はメールぐらいか。でもそんな度胸はない。まだ内田先生と一対一で話なんてできない。忙しい時間を駄文に割いてほしくない。もっと他に大切な、費やすべき時間のある人だ。


 早く早く小説を書かなければ。さっさと文学賞を取って、宣伝活動の一環で対談企画が持ち上がったりした時に内田先生を指名しなければ……うおっ、その前に引退してたらどうするんだ!引退とまではいかなくても、仕事量を絞ってメジャーどころしか相手にしなくなって、新人のオファーなんか蹴飛ばすのが当たり前になってたらどうするんだ!

 ばかばかばかばか!さっさと書きかけの小説を完成させろよ!持ち込めよ!応募しろよ!ダメだったら次のネタ考えろよ!とにかく小説を書け!

 急げ!


 あ、でもちゃんと校正はしないとな。



<7月14日 追記>

 コメントもトラックバックもできなくなったけれど、はてなブックマークはあったのでした。ちゃんちゃん。


 ちゃんちゃん、じゃないってば。

 せっかく小説を書く気持ちが高まっているものを、別の経路を見つけたからといって、わざわざ昇華してしまおうとも思わない。

 書こう。

 たぶん僕にだって、小説を買ったり人に薦めたりする以外に、ブンガクに対してできることがある。