現場編 9

九日目 埼玉県某市
作業内容:ピッキング


 四日目に行った、衣料品を扱う物流センターの仕事を再度紹介された。合流場所の駅前で知った顔を見つける。前回の現場でたくさん話をした彼だ。この間は会う人会う人話をしてばかりいたけれど、同じ日雇い派遣の立場を共有していたのは彼だけだった。いやあ奇遇ですね、今日もよろしくお願いします。いえいえこちらこそ。そんな挨拶を交わして、現場に向かうバスに乗り込む。


 目的の停留所で降りて物流センターに向かう。なぜか僕が集団の先頭を歩いている。どうも経験者はいないらしい。こちらも一度きりなのだけれど、妙な責任感を感じて待合室まで全員を案内する。


 仕事開始までの時間、タバコをふかしてぼんやり過ごす。僕がタバコを吸っているのを見て、意外そうな顔をしながらも灰皿を取りに行く人が数名。不思議なものだ。「共有スペースは禁煙」はすでに常識になりつつある。その常識が形成されてきた背景には、タバコの害の周知、オフィスのOA化(パソコンの導入)、あるいは「嫌煙権」「受動喫煙」といった概念の言語化があるのだろう。健康増進法は、そんな常識をピンで留めた。にもかかわらず、僕ら喫煙者の「吸うか吸わないか」の決定はあくまでも、その場が禁煙かどうか、という外的なルールに依拠している。そこには「タバコの嫌いな人もいるかもしれないからやめておこう」という内的な抑制がない。それどころか、「お、ここ禁煙じゃないんだ、ラッキー♪」てなもんである。これが「殺人」や「窃盗」、「放火」についてであれば、成文法化されているかどうかは一切関係がない。僕は自分自身の意志で、それはすべきではない、と判断する。行動の選択肢として思い浮かぶことすらない。けれど「喫煙」に関しては別だ。


 つらつら考えていると、いつの間にか開始時間まであと5分を切っていた。他のメンバーもぼちぼち作業現場への移動を始めている。僕もバッグから軍手を取り出しズボンの後ろポケットに突っ込んで、待合室を出る。視界の端を、見覚えのある女性の顔が横切る。すぐに思い出す。前回この現場に来たとき、点呼や引率をしていた女性だ。昼食のときに、パートのおばちゃんと話をしていたのも(その内容も)よく覚えている。今回は現場に直行だったのかな?心なしか、あまり元気がないような気がする。この間は、リーダー役で張り切っていただけなのかな。


 仕事の内容は前回紹介したとおり。まずは空きダンボールを潰すことから僕ら日雇いの仕事は始まる。自分が唯一の経験者だと思ったのは勘違いだった。気がつけば、前回ここに来たときに一緒だったメンバーは他にもいる。この前は初めての現場で不安そうにしていた女性が、今では自分から積極的に動いていたりする。自分のなすべきことを知り、迷いなく実行する人の姿はいつだって美しい。それは善悪とは違う次元の話だ。頼もしくなったね、僕は内心で呟く。


 ピッキング作業開始。ハンディ端末を手に、ダンボールを載せたワゴンをゴロゴロ押しながら仕事をする。端末の操作方法やワゴンを動かすときのちょっとしたコツ、棚と棚を巡るルート、そんな事を身体が徐々に思い出して、すぐに前回の終了間際のペースを取り戻す。仕事は身体が勝手にやってくれるのだから、頭は好きなことに使える。そう言えばこの間は、品物を同時に二つ取ったり、それをダンボールにポンと放り込んだりできなくて、イライラしてたんだっけ。別にあんなに怒らなくてもいいのに。今日はできるだけの事をすればそれでいい。与えられた条件内で、最大限に努力すれば恥じる事は何もない。そう自分に言い聞かせ、粛々と仕事を進めていれば、何事もなく一日は過ぎ去ってゆくのだと、僕は思っていた。


 雰囲気がおかしい、と気付いたのは、仕事が始まってから一時間も経ったころだろうか。


 パートのおばちゃんたちの表情が暗い。かと思うと、人目の少ないところではお喋りばかりしている。この前はそうじゃなかった。注意して観察してみる。すると、ちょっとした傾向が見えてきた。ダンボールを詰め終えてラベルを貼り、パレットに積んで新しい指示書とダンボールを受け取る、そのあたりの作業をしている時だ。おばちゃんたちの表情が特に冴えないのは。ラベルを発行する機械のそばにはパソコンが2台置いてある。それはたぶん、発注状況や在庫管理、各店舗の情報なんかを取り扱うためのものだろう。その前には統括役の社員がいる。彼が原因なのだろうか?でも、前にも彼はいた。僕の見えないところで何か、彼が不機嫌なことを知らしめる出来事でもあったのか?いやどうだろう。僕の目に映る彼には、前回と露ほどの違いもない。


 僕の疑惑の目が社員の男性に向かっていたその時、怒鳴り声が響き渡った。


「あんた初めてじゃないでしょ!何べんもおんなじこと言わせるんじゃないわよ!仕事してる自覚あんの!」


 僕は驚いて振り返る。声の発生源は、作業済みのダンボールが集められているあたりだった。日雇いの青年が、呆然と立ち尽くしている。その前に、眼鏡を掛けた背の高いおばちゃんが、怒鳴りつけたその勢いのままにふんぞり返っている。周囲の人々はみな、一瞬時間が止まったようになっている。


 そんな言い方ってあるかよ。わからないから聞いたんじゃないか。


 反射的にそう思いながら、僕は同時に、妙な雰囲気の元凶を理解する。またすぐに時間は動き出す。何事もなかったかのようにピッキングを続けながら、確認のためにあのおばちゃんをしばらく観察する。どうやら間違いはなさそうだ。あのおばちゃんは、パートのおばちゃん達のまとめ役のような存在で、ピッキング以外の役割も担っている。パソコンの前に座っていることもあるし、色々と指示を出してもいるようだ。


 様々な現象が、彼女を中心に発生している。そしてそれらは、他のパートさん達の態度にもっとも顕著だ。彼女の目の届くところで日雇いに物を教える時、パートさん達の口調は一様に厳しい。けれど彼女の目の届かないところではそうではない。彼女の目の届くところでピッキングをしているとき、パートさん達は陰鬱な表情で、テキパキと作業を進める。けれど彼女の目の届かないところではそうではない。パートさん達の行動原理は完全にあのおばちゃんに依存していて、それが僕の目には極めて奇妙な事のように映る。初めてここに来た時と、あまりにも雰囲気が違う。前はこんなんじゃなかった。前はもっと……あれ?


 ウォルフはどこにいるんだ?そうだウォルフだ。前にパートさん達をまとめてたのはウォルフだったじゃないか。僕が勝手にライバル視して張り合って、あだ名まで付けて遊んでいた、あのもの凄いスピードで仕事をする女性はどこにいるんだ?


 ……いた。あのおばちゃんの近くで働いている。おばちゃんにばかり目がいって、そばにいるウォルフには全く気が付かなかった。いや、やっぱりウォルフも元気がないんだ。その分存在感が薄れている。ウォルフ、どうしたんだ。キミの働きぶりはまさに率先垂範。口よりもまず行動で模範を示す、立派なリーダーだったじゃないか。そんなキミだからこそ、僕はキミのように精確に迅速に働きたいと思ったんだよ。そのおばちゃんは、キミよりも偉いのか。長く働いているのか。違う肩書きを持っているのか。僕には、事実を知る術はない。おばちゃん達に媚を売って、情報を得ることなんてできない。だから僕にわかるのは、たった一つの事だけだ。キミがリーダーシップを執っていた前回の方が、ずっと働きやすかった。退屈だったけれど、平和だったよ。


 なんとなく悲しい気分のまま、午前中の仕事を終える。


 別棟の食堂へ。おにぎりを食べる前に、自販機でカップのアイスコーヒーを買って一服する。たまたま僕の前に座った日雇いのおじさんも、タバコを吸い始める。自然と会話が始まる。


「珍しいよね、こんな風にタバコがどこでも吸える会社って。」


 僕は慌てて、シーと言いながら指を口の前に立てる。


「その通りですけど、あんまり大きな声で言うと、せっかくタバコが吸える場所まで禁煙になっちゃうかもしれません。秘密にしときましょう。」


 僕が小声で言うと、おじさんはニヤリと笑う。共犯関係成立。


「喫煙者には生きにくい世の中ですよね。すっかり。」


「そうだねえ。」


「でもこういう風になったせいで、大半の喫煙者のマナーはだいぶ向上したと思いません?タバコのポイ捨てとか、人ごみの中で路上喫煙するのとか、今じゃ喫煙者のほうが厳しいくらいですもんね。」


「そりゃあだって、自分の首を絞めるようなもんだよ。」


「そうですよね。僕もそういうの見ると『おい馬鹿やめろ!コッチまで迷惑するじゃねえか!タバコ嫌いにとっては喫煙者全員同じなんだぞ!』とか思うんです。」


「自衛しないと、税金とか好きに引き上げられちゃいそうだしね。」


「そうなんですよね〜、一箱千円なんかにされたら、高嶺の花になっちゃいますよ。でも残念ですよね、タバコってうまいのに。」


「ね。」


「快楽に関しては持論があるんです。別に生きていく上でニコチンが必要なわけじゃない。でもそれに中毒して、欠乏と充足のサイクルを味わうことによって平板な生活に潤いをもたらす。中毒することがなければ、ほとんどの快楽は失われてしまうんじゃないか。そういう観点から言えば、ニコチンも、カフェインも、知識も、情報も、もしかしたら今僕たちがしているこんなお喋りだって、そういう中毒の賜物なのかもしれない。一切毒性のないものなんてほとんどないんだから、別にタバコばかり目の敵にする事もないんじゃないか。そんな風に思うんですよね。」


 とは言え、中毒の対象は世界に溢れている。であればその毒性を喧伝されるモノへの中毒は早々に解除して、別の中毒を導入すればいいような気もする。けれど喫煙の快楽は喫煙だけのものだ。他のもので代用は効かない。そのあたりで僕の思考回路は停止して、結局のところ、タバコを止める気には全くならない。


 おじさんは急に雄弁になった僕を見て、ちょっと呆れていたのかもしれない。うんうんと頷いてから、話題を替えてきた。


「ここの仕事は、何度か来てるの?」


「いえ、僕は二度目です。」


「そうか、オレはここは初めて。普段は自営業やってるんだけど、最近仕事が少なくてね。そういう時だけ派遣で仕事するんだよ。」


「そうなんですか、大変ですね。」


「まあ、それほどでもないさ。」


 穏やかに会話からフェードアウトして、僕たちは昼食を始める。


 昼食を終えて待合室に戻ると、Yさんが一人で座っている。Yさんは前回の現場で仲良くなったあの人だ。この間は名前を訊くタイミングを逃してしまったけれど、今回は仕事中に名前を知る機会があった。灰皿を持って隣に座ると、「あ、ども」と言いながらまず笑顔を見せてくれる。やっぱりこの人は感じがいい。


「どうですか、今日の現場は?」


「この前のところよりずっと楽ですね。いやあ、いいです。」


 Yさんはニコニコしながら答える。Yさんは前回の返本廃棄の現場と今回の物流センターの仕事を比較している。僕はこの物流センターでの二度の仕事を比較している。感想が違うのは当然だろう。


「もう、あの現場に行くつもりはないんですか?」


「ない、ですね。実は、今でもまだ関節がギシギシ言うんです。次の日の筋肉痛も酷くて……もうコリゴリですね。」


「そうなんですか、僕はまた行ってみようと思っていたんで、あそこでお会いできないのは残念です。」


 Yさんは意外そうな表情で僕の言葉を聞いている。


「それはまた……。」


「まあ、ずいぶん体がなまってたもんですから。筋トレに丁度いいかなって。」


「筋トレ、ですか。」


「Yさんもまたどうですか?一緒にあの苦しみを味わえば、きっと『戦友』になれますよ、僕たち。後から振り返れば、いい思い出になるんじゃないかな。」


 ちょっとしつこいかな、とは思いつつも、Yさんとまた一緒に働きたいという気持ちは抑えきれない。


 Yさんが申し訳なさそうな、けれど悪戯っぽくもあるような微妙な表情を浮かべる。まだ痛みの残っているであろう腕をさすると、おもむろに口を開く。


「美しい思い出にするには、まだ傷跡が生々しくて……。」


 なんのドラマですか!と突っ込みを入れながら、僕は大笑いしてしまう。


 そうこうしているうちに、午後の仕事が始まった。


 ピッキングしながら、一つ気付いたことがある。


 派遣は決して名前では呼ばれない。前回この物流センターを訪れたとき、引率役を引き受けていた女性を見ていてそれはわかった。そう、かつて僕が食堂で抱いた「パートと派遣の間でも、人間関係は構築されるのだ」という感慨は過ちだったのだ。仮にもリーダー役をあてがわれた以上、彼女はこの現場を少なくとも四五回は経験しているのだろう。それは彼女の仕事振りにも明らかだ。他の派遣に比べてずっと手際がいい。受け入れる側も、彼女の顔に見覚えくらいはあるはずだ。けれどパートさん達は彼女に何かを依頼する際、「派遣さん」としか呼び掛けない。「さん」という敬意を表現するための接尾語は、ここでは完全に形骸化している。




『弱い者たちが夕暮れ さらに弱いものを叩く』




 淡々と働くうちに、頭の中でブルーハーツの『トレイントレイン』が響き始める。




『その音が響き渡れば ブルースは加速していく


 見えない自由が欲しくて 見えない銃を撃ちまくる


 本当の声を聞かせておくれよ


 ここは天国じゃないんだ かといって地獄でもない


 いい奴ばかりじゃないけど 悪い奴ばかりでもない』




 鼻歌を歌いながら、少しボーっとし過ぎた。うっかり品物を二つ手に取ってしまった僕を見咎めて、パートさんが怒鳴る。


「ちょっとぉ!二つ一緒に取らないでよぉ!」


 ウォルフは「初めての方は」と言っていたし、「つまらないことで注意してごめんなさい」と言外に伝えてくれてもいた。でもそんなことは忘れたほうが良さそうだ。顔を醜く歪めて僕を威嚇するパートさんに、すみません気を付けます、と言って、何事もなかったかのようにピッキングを続ける。


 それにしても、だ。パートのまとめ役が一人変わるだけで、これだけ現場の雰囲気が変わってしまうとは思わなかった。根本的なところで、考えを改めなければいけない。


 僕は日雇いから始めて徐々に生活を立て直して行こうと思っていた。腰を据えて就職活動をしなければ、就職先企業を見極める目も曇ってしまうだろう。そう考えて。けれど、ここに現実がある。


 入社する前に「仕事」を見極めることは不可能だ。


 会社を知ることは勿論できる。上場会社なら四季報なりIR情報なりを調べれば表向きの経営状態はわかる。主力製品やサービスの将来性、一点集中型かリスク分散型か、業界動向、経営理念。面接を受ければ面接官の、中小企業なら幹部の人柄もわかるだろう。


 けれど、どんなに「会社」のことがわかっても、「現場」のことはわからない。同僚、上司、取引先の担当者、そんな、実際に関わって業務を進めていく相手までは知りようがない。一旦入って、これならなんとかやっていけそうだと思っても、異動のリスクは常に付きまとう。


 会社にも「未知」や「偶然」は溢れている。


 そうか、なんかわかっちゃったな。だとしたら、会社選びにそんなに凝ってもしょうがないんだな。


 そんな事をぼんやり考えているうちに仕事は終了。


 帰り際にウォルフと目が合う。向こうから「お疲れ様でした」と声を掛けてくれる。少し申し訳なさそうな顔をしているので、ああ、この人はちゃんと見ていてくれたんだな、となんとなく思いながらこちらも「お疲れ様でした」と挨拶する。


 帰りのバスでまたYさんと話す。「日雇い派遣の是非」やら「教育産業の未来」、労働一般について、それから僕が昔住んでいた(Yさんは今住んでいる)公団住宅の近所の話なんかをする。そうそう、Yさんの就職活動は順調に進んでいて、週末には面接が控えているのだとか。


 バスを降りて別れてから、ふと思い立って振り返り、


「Yさん、面接の成功、祈ってますよー!」


と叫んで手をブンブン振ると、Yさんもニコニコしながら手を振り返してくれる。


 あまり愉快な一日ではなかったけれど、こういう事があると帰途の足取りは軽い。


 応援するって、気持ちいいなあ、とか、僕ってカンタンだなあ、と思いながらポクポク帰る。