誤信念課題

三人の姪を前にして、私は一つの実験を開始した。
彼女たちの年齢は当時、5歳、9歳、11歳であった。
「はい、ではこれから実験を開始します。お話をして、最後に君たちに質問をしますから、よーく聞いてください。」
私は手元にあったチラシの白い裏面に、さらさらと絵を描いていった。
男の子、女の子、伏せたカップを三つ、それにボール。
「ある部屋に、守君とカナちゃんの二人を呼びました。その部屋には、三つのカップとボールがあります。三つのカップをここでは、A、B、Cのカップと呼ぶことにします。二人の目の前でこの三つのカップを伏せました。そして、Aのカップの中に、ボールを入れました。ここまではいいかな?」
三人の姪はコクコクと頷く。
「カナちゃんにお願いして、少しだけ部屋を出てもらうことにしました。いま、部屋にいるのは守君だけです。守君の目の前で、Aのカップに入っていたボールをCのカップに移動しました。それから、部屋を出ていたカナちゃんを呼び戻しました。カナちゃんに、ボールの入っているカップを指差してください、とお願いしました。さてここで問題です。カナちゃんはA、B、Cのどのカップを指差すでしょうか?」
9歳、11歳の姪は「A!」と力強く答えた。
と同時に、5歳の姪は「C!」と答えた。
途端に二人の姉は妹のほうを向き、「えー、Aだよー。」と言った。
末の妹は、それでも執拗に「C!」と繰り返した。
私は一人目を丸くして、「おおおおお〜」と感嘆していた。
期待どおりの結果が得られたからである。


誤信念課題とは、「心の理論」の発達を検査するためのテストである。
「心の理論」という名称は誤解を招きやすいが、言い換えれば、人や類人猿の精神の、「他者が自分とは違う信念を持っていることを理解する機能」のことである。
今回のテストにおいて端的に試されるのは、「Cのカップにボールが移ったことを知っている守君」と、「Cのカップにボールを移されたことを知らないカナちゃん」の「二人の知っている内容には違いがある」ことを理解できるか、という点である。
9歳と11歳の姪にはそれが可能であった。
5歳の姪にはそれが不可能であった。
通常、4〜5歳で「心の理論」は発生するものとされているため、私は「ふむ、やや遅いな」とは思いつつも、実験の成功を祝したのであった。
5歳の姪は、「心の理論」を獲得していなかった。
だが、じきに獲得するだろう。
そんなことで一喜一憂するのは馬鹿げたことだ。
そう思いながらも、私はこの実験の結果を彼女たちの両親に(つまり私の姉夫婦に)伝えはしなかった。
それはつまり、私は姉夫婦が「無用の心配」の虜になることを避けたいと考えたからであり、かつまた、「冷静な判断」を期待しない程度に見くびっているということでもある。


塾講師として小中学生を教えていると、小学生を教えているときは特に、この「誤信念課題」について考えることが多い。
人間の精神には発達の段階がある。
発達の速度には、ばらつきがある。
誤信念課題から得られるこの二つのシンプルな結論に照らし合わせて「中学受験」という制度を考えれば、得られる結論は一つしかない。
そこで競われているのは「早熟度」である。
ただそれだけである。
ただそれだけのために、子どもから運動の、友人や家族や地域とのコミュニケーションの、一人遊びの機会を奪い、年額100万に及ぼうかという投資を行い、膨大な宿題を課す。
首都圏の中学受験者数はここ十年右肩上がりで、不況といわれる世相を嘲笑うかのように、また神奈川県で中高一貫教育を開始する公立中学が増加したこともあり、今年も増加傾向は続いた。
この状況を支えているのは、「少子化による一人当たり教育費の増大」「公教育への不信」、そして「根強い学歴信仰」の三本柱であることは論を俟たない。


……オチまで続ける気力がわかなくなってしまった。
いや、ちょっと嫌味言いたくなっただけです。
誤信念課題クリアできない大人がいっぱいいるんじゃない?って。