政治への遅々とした歩み

人の精神の発達程度を検査するための一つの手法として、「誤信念課題」という心理学実験がある。
この実験によって調べることが可能なのは、「心の理論」と呼ばれる、「自分と他者の信念に違いがあることを理解する能力」の発現の有無である。
通常この能力は4−5歳で発現するものとされており、また「自閉症」や「アスペルガー症候群高機能自閉症)」と診断された患者に、特に発達の遅れが見られることが知られている。
私はかつて、姪たちを相手にこの実験を試みたことがある。
9歳、11歳の姪は見事に課題をクリアしたものの、5歳の姪はクリアできなかった。
その結果を見て、私は大変深い満足を覚えた。
自分の持っている知識は、確かに現実と合致している。
私はその「あらわれ」としての行動を精査することで、不可視の神経細胞ネットワークの「つながり」を確認することができる。
それらの確信は私にとって非常に意義深いものではあったが、「大変深い満足」の原因はそこにはなかった。
三姉妹の二人の姉が、「自分と他者の信念に違いがあることを理解する能力」を持ち始めていること。
それを確認できたことが一番の収穫であり、何よりも私を喜ばせたのである。
本来、人間は同じではありえない。
人間は固有のDNAをもって、「唯一性」とともに生まれてくる。
また、神経細胞は五感からの情報入力によって接続、発展、強化され、中枢神経系を形成する。
人間が他者と同一空間を占めることは不可能なのだから、同一情報を得続けることも、同一の中枢神経系を形成することも不可能である。
DNAと神経系が、人間を別個の存在たらしめている。
そのような人間たちが集団を形作って生活している以上、「自分と他者の信念に違いがあることを理解する能力」は必須のものである。
「この子たちは、他者と共生する能力を持ちつつある。」
私は「誤信念課題」の実験を通じて、子供たちに生きる力が芽生えつつあることを確認し、祝福したのだった。


文学とは、また小説とは、「個別性」や「唯一性」を備えた自他、あるいは個々の存在を立体的に描く芸術形式である。
そこには絶対的な断絶があり、しかしその断絶を超えて成立する奇跡的なコミュニケーションがある。
そしてそこに「事件」や「出来事」が発生するとき、個々の差異はよりいっそう際立ち、「事件」や「出来事」は多面性とともに立ち上がる(時に消失する)のである。
芥川龍之介に、『藪の中』という作品がある。
すでに被疑者の捕らえられた強盗殺人事件。
それを巡る七つの証言によって、作品は構成されている。
ここではまず、証言者と「事件」の関係、さらに証言によって明らかになる事実と、より不明確になる事実を一つずつ検討していこう。
一人目の証言者は「木こり」。
死体の第一発見者である。
死体発見場所は山科(現在の京都市の一区画)。
被害者の服装は高貴な身分を示している。
死因は胸元の突き傷で、死体発見時にはすでに血は止まり乾いてはいたものの、腐乱状態には至らず、事件発生からそれほどの時間は経過していないものと見られる。
物的証拠は「縄」と「櫛」。
死骸の周囲の落葉は血に濡れている。
凶器は発見されない。
二人目の証言者は「旅法師」。
事件の前日に被害者とすれ違っている。
男は徒歩で、連れの女は法師髪・月毛の馬に乗って移動していた。
男は弓矢を携え、太刀を佩いている。
女は牟子(むし。女物の帽子のようなものか)で顔は見えず、萩重ねの衣に身を包んでいる。
三人目の証言者は「放免」(検非違使の使った元罪人の下級官吏)。
被疑者「多襄丸」を捕らえたのはこの男である。
多襄丸の逮捕時の様子から、多襄丸が被害者と女の二人連れから弓矢と馬を奪ったことが明らかになる。
多襄丸の女好きの性向や別件関与の可能性を示唆する。
四人目の証言者は「媼」(おうな。老女のこと)
被害者の連れていた女の母。
二人が若狭(現在の福井県南西部)へ向かっていたことと、二人の情報を証言する。
男は侍で名は金沢武弘、歳は二十六。温厚な性格。
女は名は真砂、歳は十九。勝気。
五人目の証言者は被疑者「多襄丸」。
犯人と目される男である。
多襄丸は山科の駅路で二人と道連れになり、女に欲望を感じて奪うことを決めた。
ありもしない宝をエサに二人を藪におびき寄せると、男を杉の木の根元に縛り上げ、女をものにすることに成功する。
目的を達して去ろうとする多襄丸に、真砂がすがりつく。
「あなたか夫か、どちらか一人死んでください。」
情欲を満たすことだけが目的だった多襄丸に、このとき新たな欲望が芽生える。
この女を妻にしたい。
多襄丸はしかし、武弘を縛り上げたまま殺害することをよしとせず、縄を解き、正々堂々と斬りあって死すべきものを決する。
二十三合目に、多襄丸は武弘の胸を深々と刺し貫いた。
そして周囲を見回す。
真砂はいなくなっている。
多襄丸は山道に戻り、残されていた馬に乗って逃走する。
後は放免の証言どおりである。
六人目の証言者は被害者の妻、真砂。
証言は、多襄丸に犯された直後から始まる。
夫に駆け寄ろうとした途端多襄丸に蹴倒された真砂が見たものは、夫の眼に宿った憎悪と軽蔑だった。
武弘の眼差しに撃たれ、真砂は失神する。
目が覚めたとき、多襄丸はいなくなっている。
ただ縛られたままの夫だけが──その眼に憎悪と軽蔑を宿したまま──残されている。
真砂はすべてを捨てる決意をする。
「ともに死にましょう。」
真砂は落ちていた小刀(さすが)を手に取ると、夫の胸に深々と突き刺す。
真砂は再び失神し、目を覚まし、死骸の縄を解き、自害しきれぬままにさまよい、ついにこの法廷に引き出されている。
語り終えた真砂は泣き崩れる。
七人目の証言者は、巫女の口を借りた武弘の「死霊」である。
死霊は、目の前で妻を犯された夫の、盗人にかき口説かれて変心する妻を目撃する夫の気持ちを語る。
うっとりと夢見るような目つきで、真砂は多襄丸と手を取り合って立ち去ろうとする。
しかし、藪の出口に差し掛かったとき、真砂は杉に縛り付けられた夫を振り返り、多襄丸に訴えるのだ。
「あの人を殺してください。わたしはあの人が生きていては、あなたと一しょにいられません。あの人を殺してください。」
多襄丸は女をじっと見詰める。
やにわに真砂を蹴倒し、多襄丸は武弘にこう問うのである。
「あの女はどうするつもりだ? 殺すか、それとも助けてやるか? 返事はただ頷けば好い。殺すか?」
武弘が返事する間もなく、真砂は逃げ出す。
捕らえようとする多襄丸に袖さえも掴ませずに。
多襄丸は女を逃したことの危険性をすぐに悟る。
「今度はおれの身の上だ。」
多襄丸は武弘を縛っていた縄を切り、藪の外へ姿を消す。
武弘は一人残される。
その武弘には、もう何もない。
生きていくだけの希望も、矜持も、義理もない。
目の前に落ちていた真砂の小刀を手に取ると、己の胸に深々と突き刺す。
喉の奥から鮮血の濁流がわき上がってくる。
薄れゆく意識の中で、胸から小刀が引き抜かれるのを感じる。
その後のことは、死霊といえど知る由もない。


これが芥川の『藪の中』のあらすじである。
「わたしこそが武弘を殺したのだ。」
と名乗り出るものが三人。
凶器となったはずの小刀、あるいは太刀は見つからない。
その他の細部に関しては、一応複数の証言の中で一致している。
曰く、真砂と武弘は山科の道中で多襄丸と出会い、道連れとなった。
三人は多襄丸の口車に乗って山中へと入り、宝が埋まっているとされた「藪の中」へ足を踏み入れる。
多襄丸は武弘を杉の根元に縛りつけ、真砂を陵辱する。
問題はここから先である。
誰かが武弘を殺した。
誰かが凶器を持ち出した。
どこかのタイミングで(多襄丸に蹴倒された瞬間か、武弘の胸に小刀を突き刺した瞬間か、武弘の胸から小刀を引き抜き気絶した瞬間に。または、武弘と多襄丸の果し合いが終わってから戻ってきて)真砂は「櫛」を落とした。
誰かが武弘の縄を切った。
「藪の中」の出来事を確定するために必要な情報は物語の中にない。
多襄丸は真砂の乗っていた馬と武弘の持っていた弓矢を自分のものにした。
真砂は多襄丸から逃げ切ることに成功した。
「藪の中」には武弘の死体と、櫛と縄が残された。


読者はこの物語を前に、あらゆる立場を取ることが可能である。
「木こり」「旅法師」「放免」「媼」「多襄丸」「真砂」「武弘」、誰か特定の登場人物に感情移入をし、その観点から「事件」を眺めることができる。
証言から浮かび上がる物的証拠、状況証拠、証言内と証言間の整合性と非整合性のすべてを勘案し、「検非違使」や「判事」、また「探偵」になることも可能だ。
わたしたちは「読み落とす」ことができ、「読み加える」ことができる。
テクストは自由の天地である。
けれどその天地は、一人の人間の中にしか広がっていない。
わたしたちが解釈を誰かに提示するとき、わたしたちは最低限度の制限を受け容れる必要がある。
「多襄丸が武弘の胸を太刀で貫いたのは、二十三合目であった。」
多襄丸は武弘と決闘していないかもしれない。
多襄丸が武弘を殺害したのは十二合目だったかもしれない。
わたしたちには多襄丸の証言が真実だと証明する為の手立てがない。
だが、多襄丸がそう証言したことは紛れもない物語上の「事実」である。
「真砂は多襄丸と手を取り合って藪の外へ出ようとする。しかしその瞬間、武弘を振り返った真砂は突如多襄丸に懇願する。『あの人を殺してください。』」
真砂は多襄丸に心を奪われはしなかったかもしれない。
多襄丸と手を取り合って藪の外に出ようとはしなかったかもしれない。
「あの人を殺してください」とは、言わなかったかもしれない。
だが、死霊に憑依されたという巫女が検非違使の前でそう証言したことは、物語上の「事実」である。
わたしたちが物語を解釈し他者に向けて開くとき、わたしたちは物語上の事実関係に緊縛される。
いつ、どこで、誰が、どうして、何を、どのように。
発言主体は誰なのか、その発言は誰に向けてなされたものか、その発言を耳にしたものは誰だったのか。
書かれているのは追憶なのか、事実なのか、期待なのか、あるいは伝聞なのか。
そういった物語上の事実関係を踏まえたうえでなされた解釈だけが、一般性を獲得しうる。
わたしたちは人々と物語を分かち合い、解釈を分かち合う。
分かち合う為には、時に自由を敢えて毀損する事も辞さない。
なぜならわたしたちは、僅かな痛みを耐えることで、より広大な天地を手に入れることができるからだ。


これまで語ってきたことを確認しよう。
わたしたちは「心の理論」を持っている。
「心の理論」とは、「自分と他者の信念に違いがあることを理解する能力」のことである。
わたしたちは違う遺伝的性質を持って生まれ、違う環境を生きる。
そうして、独自の信念、ものの見方、価値観を持つに至る。
けれどそれは、決定的な断絶を意味しない。
わたしたちには、違う信念、意見、思想を持つ他者とともに生きる力が内蔵されている。
また、芥川の『藪の中』を読むことで、わたしたちは次のような事柄も確認してきた。
個々の人物は、それぞれの主観を通して世界を見ている。
立ち位置が違えば見える世界が違う。
ものの見方が違うということは、注意する点が違うということであり、見落とす点が違うということである。
そのようにして得た情報を元に、人は証言する。
その証言もまた、個々人の利益、都合、美意識などによって必ず歪む。
結果、浮かび上がる「事件」は曖昧模糊としたものとなり、時に矛盾を孕む。
だからわたしたちが「わからない」のは必然なのだ、と言いたいのではない。
それが「個人」、「証言」、「事件」というものの本態的な関係なのだ、ということである。
それでもわたしたちは、一つ一つの証言が適切な事実関係を踏まえているか否かを判別することができる。
同じ物語を共有しているかどうかを確認することができる。
そうして初めて、互いの解釈を照らし合わせ、自らの見解を修正することや議論することが可能となるのである。


政治もまた「物語」であり「テクスト」である。
そこには単一の操作者もいなければ、制度の全体を一望俯瞰する全能者も存在しない。
ただ「宛先としての読者」が再構成する物語だけがある。
制度の内部にいる人間はその主観を通じて己の持ち場から見える風景を見ている。
制度の外部にいるわたしたちもまた、主観を通じて到来する「証言」によってその内部や全体を想像するほかない。
わたしたちの国が民主主義を採用しているとはいえ、選挙だけが政治への唯一の参加機会なのであれば、自らが国政に対して有責であると宣言することは難しいかもしれない。
けれどわたしたちの憲法は、国民に「言論の自由」「結社の自由」「集会の自由」を保障している。
わたしたちは投票権のみではなく、様々な自由によって、他者の意見に影響を及ぼし、自らも影響を及ぼされる権利を持っている。
それゆえに、自らの一票が政治家の当選に寄与しなかったとしても、わたしたちは政治に対して有責である。
「わたしの反対者を含む集団」の「多数決」の結果を受け容れること。
どのような政治的決定であっても、そこに己の有責性を読み取ること。
おそらくそこに、「成熟」の契機はある。
選挙が終了し、閣僚が決定しても、わたしたちの役割はなくなりはしない。
いつだって、次の選挙は控えている。
「次の選挙が来ない」状況は、今のところ想像の埒外である。


私はこんなところから、私なりの政治を始めてみようと思う。