柔らかな手つきで

 「メタメタ」というエントリで、こんなことを書いた。<引用開始>

 言葉じゃ伝わらないよね、って頷きあってる人々は、いったい何を共有してるんだろうな?

 表現力不足、語彙の貧困、言語万能主義という空想上の敵に一緒になって立ち向かう一体感、切り捨てて回収して終わりのせっかちな聞き手へのいらだち、表現されえない自分という物語、表現不可能な自分を手付かずにできる安堵、表現されてしまうかもしれない恐怖。

 長いよ。

 自我肥大とそれを互いに許しあうムード、だよ。<引用終了>


 本日付けの内田先生のブログには、僕たちがすっかり忘れ去っていた一番大事なことが書かれていた。<引用開始>

同じ話を繰り返す。
あらゆる出来事を手持ちの「チープでシンプルなナラティヴ」に流し込む。
それが私たちの知性の活動の基本的なかたちなのである。
おろかなことである。
このピットフォールから脱する唯一の手がかりは、「でも、すごくたいせつなことがこのナラティヴでは語り切れずに残っているような気がする」という知的な残尿感(ひどい比喩だけど)を覚えることである。
その感覚以外に、同一のナラティヴのリフレインから抜け出す手がかりはない。<引用終了>


「言葉じゃ伝わらないよね」を、
「この」言葉では伝え切れていないけれど、
他の言葉なら伝わるかもしれない、
と読むこと。
新しい言葉遣いへの可能性を探ること。
一緒に探そう、と呼びかけること。


 なんでこんな大切なことを簡単に忘れてしまうんだろう。


 いや、忘れてしまった理由は知っている。

 飽きたのだ。単調に繰り返される言葉に。

 怒りを覚えたのだ。言葉を生業にしている人間の無責任さに。

 思い出したのだ。「僕を知りたければ作品の表面だけを見てください。」と語った
ウォーホルの潔さを。


 忘れなくなるまで、自分に言い聞かせ続けることにする。



 内田先生の言葉は、僕たちの中にいる「このままでいたい自分」を少し静かにさせる。その差し出し方を、きっと学ばなければいけない。