フォークナー/八月の光

 初フォークナー。

「ああ、きっと読まなければいけない作家なんだろうな。」

 初めてそう思ったのは、たしか野崎歓の「フランス文学の扉」を読みながらのことだった。残念ながら名前は忘れてしまったが、あるフランス人の作家がフォークナーを読んだことで小説を書く力を取り戻したのだという。僕も彼のように、とは思わずに読んだ。

 フランス文学の扉を通ってアメリカ文学にたどり着いた─と書くと、皮肉のように響くかもしれない。けれどそれは事実世界中の文学が繋がっていることの裏返しなのだから、特に言い訳する必要もないだろう。

 目の前の本棚を眺めれば、ロシア、チェコ、アルゼンチン、イギリス、アメリカ、コロンビア、フランス、ドイツ、イタリア、スペイン、アラブ(これは千夜一夜物語だから範囲が広い)、そしてもちろん日本の作家の小説が並んでいる。日本の同時代人が書く小説はごく狭い範囲でしか読まない僕が、どうしてこれだけ世界各地で書かれた小説を手に取ってきたのだろう。文学を通して表わされた、何か茫漠とした集合意識のようなものにアクセスしたいと願っているのだろうか。それとも、やたらに舶来ものをありがたがる、明治人気質の残滓が僕の身体にも滞留しているのだろうか。

 ともあれ、76年ほど前にアメリカで書かれたお話について少し書いておく。


 検出可能なテーマはごく多様である。

・人種
・宗教
・愛
・父-子関係
・母-子関係
・母性
クィア(男性同性愛)
ミソジニー(女性嫌悪)
・他者
アイデンティティの不在

 普遍的なテーマに真っ向から取り組む、実に骨太な小説。手法として特に奇抜なものはないが、この3つは特徴として挙げておいてもよいかもしれない。

・意識の流れ
・フォント、文字サイズ変更による効果
偽史(地域はアメリカ南部に限定されているが、架空の町・ジェファスンが舞台)


 さて、これからこの小説の核とも言える人物造形とプロットについても筆を進めたいところなのだが、未読の方にはあまり読んでいただきたくない。今は読むつもりがなくとも、いつか手に取らないとも限らないのだから、どうぞご自身の読書体験を大切にしてください。


 というわけで、話を続けることにする。


 この小説のどこかに、共感できる人物は存在するだろうか?

 懲罰を求めて徘徊するクリスマス、黒人を擁護して孤立したミス・バーデン、お調子者で自堕落なブラウン(バーチ)、労働を世間からの避難所にするバイロン・バンチ、原罪を生きている間に贖おうとするハイタワー、移動する妊婦リーナ・クローヴ……あるいは、クリスマスの祖父母ハインズ夫妻や、クリスマスを孤児院から引き取ったマッケカン夫妻、孤児院の栄養士といった人物まで候補に入れてみてもいい。

 どこにもいない。少なくとも僕にとって、共感できる、自分を重ねられる人物などというものは一人も出てこなかった。そしておそらくは、現実にこれらの登場人物に似た人間に出会ったことすら、ほとんどないだろう。ところが恐るべきことに、「こういう人間は世界のどこかに必ず、しかも大勢いる」という想念が読み進めていくうちにむくむくと湧き出し、確固たる人間像となって次々と脳内に定着していくのだ。

 よくある困った小説に、登場人物の来歴が紹介されていくのだけれど、読者としては「正直まだこの人に興味を持つところなんて一つもないのに、くどくど説明されても困っちゃうよ」とうんざりさせるようなものがある。『八月の光』はその正反対である。どのエピソードも、どの過去も、素晴らしく説得力があって魅力的だ。狂気としか捉えようのない言動であっても、それ以外の形では発現しえない精神的土壌のようなものを的確に匂わせる。作家の力量とはこういうものか、と感嘆せずにはいられない。


 だが、この小説でもっとも恐ろしいのはそこではない。(だってそこが恐ろしいのは僕がフォークナーに嫉妬してるからだし。)


 クリスマスが黒人(との混血)である証拠は一切提示されていない、という点である。にも関わらず、クリスマスは自らが黒人であるという物語をすすんで受け入れる。黒人として遇され、差別され、処罰されることを望む。祈りによって救済に導こうとするミス・バーデンを殺す。自分を白人の旦那扱いしかしようとしない黒人達に苛立つ。現世の法による裁きを望まず、惨めな厳罰としてのリンチによって死んでいく。

 その物語を与えるのは、ユーフューズ・ハインズであり、孤児院の栄養士である。クリスマスの身体に流れるはずの黒人の血のよってきたるところを、彼らは憎悪に歪んだ主観と伝聞によって説明する。孤児達がクリスマスを仲間外れにして「黒ん坊」とはやし立てるような場面は、決して直接には描写されない。ただ二人の狂人によって証言されるのみである。クリスマスの父であるはずのサーカス団員の殺害は、ご丁寧にも漆黒の暗闇の中で果たされる。サーカスの団長は「その男はメキシコ人だった」と言い残して去り、それきり行方もわからない(ここではすでに黒人ですらない)。

 登場する誰にも、その物語を確かめる術などない。しかしクリスマスは己の手でその物語を選び取り、自身が選び取っていることにすら気付かない。


 絶望的な物語を選び取るもの達を多く描いた物語の中で、唯一希望の物語を選ぶ力を持った存在として登場するのがリーナ・クローヴである。


 リーナは故郷のアラバマでルーカス・バーチと名乗っていたジョー・ブラウンに騙され、遊ばれ、孕まされ、しかもそれを告げた途端に逃げられもする。だが彼女は自分を可哀そうな女だとは考えない。ただ「事情があって戻ってこられない彼を、待ちきれない自分の方が迎えに行くことにした」という物語を執拗に繰り返す。これは確かに狂気の一形態ではある。彼女の道行きを助ける人々も、やんわりと彼女が「悪い男にひっかかった」現実を受け入れるように促す。だが彼女は耳を塞ぎ、身を硬くしてそんな「現実」を断固拒否し続ける。

 ところが、だ。

 いざブラウンと再会し、その男が自分自身と赤ん坊の養い手になり得ないことを否定不可能な形で突きつけられると、彼女はあっさりと物語を「書き換え」てしまうのである。まるでそれ以前の物語が単なるホラに過ぎなかったことは、彼女自身が一番承知していたとでも言わんばかりに。あれだけ執着していた物語をあっさりと切り捨てて。

 物語はそうして、リーナの感嘆と歓喜の声で幕を下ろす。これだけ悲惨な要素が詰まった小説がこんなに楽天的な終わり方でいいのか、と戸惑いながら、それでもリーナのしなやかな逞しさを目の当たりにすると、実際すべてが何とかなってしまいそうな気がするのだから不思議なものだ。なんとはなしに、男性が恐怖する女性性の最たるものが、こういったリーナ的な何かなのではないかとぼんやり思ったりもする。