二人のY/二人目

 見たこともなければ会ったこともなく、けれど自分自身のある恐れをもっとも具体的に体現している人物として、心の中に隣人として留め置かれるような人がいる。

 友人から話に聞いたY君は、まさにそんな人だ。


 彼は小説家志望の大学生だった。すでに何本か小説を書き上げているらしかった。

「どこかに応募したりしないの?」

 周りは当然、こう訊いた。その質問に対して、彼はこう答えるのが常だった。

「ああ、これは応募しちゃいけないんだよ。だって、ある一人の人の為に書いた小説だからね。誰にも読ませるわけにはいかないよ。もちろん、文学賞に応募すれば受賞は間違いなしだし、どこかの文芸誌に掲載されれば芥川賞だって取るかもしれない。でも、これはあの人の為だけに書いた小説だからね。そんなことはできないんだ。」

 その言葉だけで、彼がどういう人間なのかは誰にとっても明白になった。



 例えば、彼の友人がこんなことを話しかけたとする。

「このケーキずいぶん甘いねー。」

 Y君は、こんな風に言葉を返す。

「甘いっていうんじゃなくてさあ、べったり舌にも喉にも残る感じだよね。鼻の奥の方がクッと熱くなるっていうか、食べた瞬間にもう胸がむかつき始める、というか。外国のお菓子を食べたときに似た感じかなあ。」

 友人には、Y君の言葉はだいたい「甘すぎる」という印象を精緻に表現したもののように受け取れるのだが、なぜ自分の「ずいぶん甘いね」という感想を否定したような形でそれが始まるのかはよく理解できない。


 あるいは、Y君にこんなことを言ってみるとする。

「ああ、あの映画観たんだ。面白いよね。」

「面白いっていうかさあ、ワクワクするっていうか、ハラハラするっていうか……。展開の先が読めないんだよ!いや、読めないわけじゃないんだ、あらすじぐらいなら、有名な映画だし、前もって知ってる部分もあるし。でも殺人が起こるってわかってるのに、誰がいつ、どんな手段で、どんな理由で、どこで起こるのかがまったく予想できないように作られてるんだよ。それなのに、画面の雰囲気と演出だけで『これから確実に殺人が起こる』ことだけは雄弁に伝えてくるんだ。すごいサスペンスだった。実際に起こる事件にしても、起こってしまえば『それ以外のありようでは決して起こりえなかった』ことを視聴者に納得させてしまうんだからね。本当に傑作だよ。」

 Y君は友人がなんとなく言った「面白い」という言葉に、怒りを覚えているようですらあった。彼の周囲は、彼以外の人間が何かの感想や印象を話すことがためらわれるような、そんな雰囲気に満たされるようになった。


 誰にでも、簡単な一言で片付けてほしくないもの、というのはある。それは自分の仕事に関わるものであったり、以前勉強したことであったり、趣味として長く付き合っているものであったりする。

 しかしY君は、何か特定の分野に対してのこだわりから言葉を発しているのではなかった。

 あえて括ってみせるなら、「感性」と「言葉」ということになるのだろう。


 Y君は「自分の言葉」に取りつかれた人だった。自分以外の人間がある言葉で語れば、自分以外の人間がその言葉で語ったという、まさにそれだけの理由で、それ以外の言葉で語らねばならないという強迫観念に襲われているらしかった。

 結果、彼が「自分の言葉」を見つけられたものかどうかはわからない。アイデンティティや、オリジナリティをものにできたのかもわからない。

 なぜなら、彼は担当教授と喧嘩別れして、大学を去ってしまったからだ。