二人のY/一人目

 Yとは高校一年の時、同じクラスになった。どうして仲良くなったのかはよく覚えていない。

 奇妙な笑い方をする男だった。目じりと口角のあたりにちょうど一つまみぶんの筋肉が盛り上がるような、訓練して身につけた顔面運動としての笑い、という印象を受けるようなそんな笑い方をした。そういう時、Yの目は決まって相手を見据えていた。

 聞けば、小中といじめを受けることが多かったという。道理で、と納得する思いを強くした。

「君の本当の、腹の底から笑うさまを見てみたいもんだね。」

 僕はそんな事を言ったことがある。Yは困ったように、たぶん無理なんじゃないかと思うけど、と呟いた。


 Yの家にはちょくちょく学校が終わってから遊びに行った。彼が友人を連れてくるのは稀なことだったらしく、初めのうちは彼の母親に客扱いされてひどく面倒だった。「何かお飲み物お出ししましょうか?紅茶、コーヒー、お茶、牛乳ならありますけど」と問われ、「あ、じゃ、じゃあ牛乳を」と答える定型的なやりとりだけで、会話のリズムがまるで合わないのに戸惑ったのをよく覚えている。その母親が席を外した後で、僕の困惑を悟ったYは「いやあ、こうなると思ってたんだよ、予想通りだよ」とひどく愉快そうだった。きっと、彼もずっと自分の家族に困惑していたのだろう。

 部屋の本棚にはミステリーが多かった。Yは、自分はこんなことが起こるのを予め見通していたんだ、という言い回しをすることが多かった。加えて言葉尻に付け足す余計な一言で、人の反感を買うことが多かった。

「お前頭は悪くないんだから、そんな事言えば相手がどう思うかぐらいわかりそうなもんだけどな。」

 そう嗜めたこともある。それはYも度々言われてきたことらしかった。中学の担任にも「お前の頭は人よりも3倍回転が速い。だから、言葉を口にする前に2度チェックしても会話できるだろ?」と放言癖を直すように言われていたのだと。ただ問題は、Yが予想できる事柄の種類は、ごく狭い範囲に限られていた、ということだった。


 ある時期本棚に、Yにしては珍しく、ミステリーではない小説が増えていった。村上春樹のものが多かった。どういう道筋でそういう話になったのかはまったく覚えていないけれど、その本棚を背景において、Yはこんなことを言った。

「僕にとっては、普通であることが一つの大きなチャレンジなんだ。」

 実感のこもった、いい言葉だと思った。個性が無条件で素晴らしいものだと教えられていた当時の僕に、多少の違和感と共に、その言葉は刻みつけられた。


 ところが後日、僕はほとんど同じ言葉を村上春樹の『国境の南、太陽の西』の中に見つけることになる。その時僕は反射的にYの顔を思い浮かべ、「うわっ!丸パクリじゃねえか、かっこわるっ!」と心の中で叫んだ。


「うわっ!丸パクリじゃねえか、かっこわるっ!」

 小説の登場人物の台詞を、引用であることを明示せずに、自分自身のものとして話すことは「パクリ」でかつ「格好の悪い」ことだと思っていたわけだ、あの頃の僕は。「まねび」のための学生時代にありながら。


 そんなことが、もう十年以上も昔のことになった。


 小説家を志して長いこと過ごすと、嫌でもわかってくることがある。創作に関する言葉に注意を怠らなくなるからだ。

 それはまあ、古代ギリシャ時代から「ミメーシス(模倣)」の重要性は指摘されていたよ、とか、けれど「エピゴーネン(模倣者)」という悪罵も消え去りはしなかったよ、とか。現代芸術は必ず「あらゆる物語(映画、絵画、音楽、etc)は出尽くした」という紋切り型の洗礼を受け、だから後は、それらを組み合わせる(コラージュする)事こそが創作なのだ、という風に話が進むものらしい、とかそんなことだ。

 そして時には、誰もが手垢にまみれ擦り切れてしまったと思い、それゆえに最早語る価値なしと見切られていたモチーフが、突如甦って若い世代を中心に爆発的に受け入れられ、年長世代を呆然とさせる、なんて事態を目にしたりするようになる。(ex. 薄幸の美少女との恋と死別)


 そんな視点から昔の自分を眺めると、ああ本当に若かったんだな、という気がする。「パクリは悪いこと」という判断を一切疑わず、手持ちの知識の少なさゆえに、他所でその知識が使われているのを見ると過剰反応する。そんな、愚かさと紙一重の若さを、僕は持っていた。(その性向はあまり変わっていない。)


 今になって思うのは、漱石好きの友人がよく引用する一節、

「かつてはその人の膝の前に跪いたという記憶が、今度はその人の頭の上に足を載せさせようとするのです。(こころ)」

 そんな心性が、あの時自分の中で働いていたのではないか、ということ。だって僕は、Yの言葉に感心していたんだから。