子育てをしたことのない人間の

 丸刈りにした頭を撫でさすりながら、馴染みのとんかつ屋に入った。


 座敷席には首が据わったばかりとおぼしき赤ん坊を連れた若夫婦が座っていて、二人揃ってメニューを眺めている。僕はその隣に座る。赤ん坊がぐずるのは別に構わないから。


 ロースかつ定食を注文し端座して待つ。坊主にしたばかりでその気になってしまっているのだ。すぐに足がしびれて、あぐらに座りなおす。目を開けていると赤ん坊の方に気が行ってしまう。なんだか失礼なことのような気がして、見慣れた店内には目新しいものもないことだし、目を閉じて料理を待つことにする。瞑想。やっぱり、まだその気になっている。


「上ロース定食ふたつ下さい。」


 おばさんに旦那さんが声をかける。うん、ここの上ロースは最高なんだよ。僕はランチタイムで少し安くなってる普通のロースを頼んじゃったけど、夜だったら迷わずそっちだな。いいものを頼みましたね……と、それほど多くもないメニューの中から上ロース定食を頼んだ二人を、なんだか祝福したいような気持ちになってしまう。これを口に出したらきっと、僕の青年期は終わりだ。かろうじて踏み止まる。


 注文と同時にテーブルに置かれたごま入りのすり鉢を、しばらくゴリゴリと鳴らしてからまた目を閉じる。


「お待たせしました。ロースかつ定食です。」


 若旦那が声をかけながらお盆をテーブルに置く。目を開けると、待ち望んでいた揚げ立てのかつが横たわっていた。六つに切られ、一つだけ横になって切り口を見せているかつの、うっすら油の滲む、ほんのりと淡いピンク色に興奮する。坊主気分なんて一瞬で吹き飛ばす、無上のインパクトだ。レモンを絞るのも塩を振り掛けるのも、焦ってなかなかうまくいかないくらい、前のめりになって食べ始める。あ、すり鉢にソースを入れるのを忘れるところだった。


 と、夢中ではありながらも、隣の状況は気になっている。いやもう本当に夢中なのだ。ちょっとどうかというくらいガツガツやっているのだ。それでも、かつをかみ締め味わう意識のどこかに、赤ん坊の為のスペースが確保されてしまっている。意識の中心が(そんなものがあるのなら)、僕の身体からはみ出しているのだ、たぶん。


 隣の席にも、もう食事が運ばれてきていた。赤ん坊は座布団の上にそっと寝かされ、夫婦は「あ、おいしい」なんて言いながら上ロースを味わっている。なぜか僕は、自分まで褒められたような気になっている。おかしい。


 二人が食事に箸をつけてから数分も経っただろうか。


 赤ん坊がぐずる気配を見せたようで(僕にはそれほど感じられなかった)、奥さんが抱き上げてあやし始めた。それはしばらく続いて、子供を抱えたままで食事を再開する様子はない。旦那さんも少しの間は黙って食べていたものの、さすがに気になりだしたようだ。

「替わろうか?」
「ううん、もう少し食べてからでいいよ。」

 そんな会話も交わされている。


 そういえば、子供が生まれたばかりの友人の家に遊びに行ったときも、似たような状況だった。食事をご馳走になっていて(赤ちゃんのいるお宅ではなるもんじゃないのかな?)、子供がぐずり始めると、友人か奥さんのどちらかが赤ん坊をあやしに布団のそばに行く。交替で赤ん坊について、世話をしていないほうが少しつまむ。あやしながら食べるわけにはいかないの?それに少しくらい泣いたって、気にしないよ?そんな事を言ったような気はするけれど、どんな答えが返ってきたかは覚えていない。特に返事はなかったのかもしれない。


「先にかつだけ食べちゃったほうが良かったかもなあ。」


 赤ん坊をあやしながら旦那さんがぼそっと呟く。奥さんが苦笑する。揚げたて魔人の僕としては、その気持ちは分からないこともない。多分それを口にはしない(できない)だろうけど。


 ロースかつ定食は、最後までとてもおいしかった。爪楊枝を使って、お茶をお替りして、少し口福の余韻に浸ってから、支払いを済ませて店を出た。


 さてそれで、未だに釈然としない気持ちが残っている。


 彼らの上ロース定食は、最後までおいしかったのだろうか?なんてことを言うつもりはない。赤ちゃん、どこかに預けてくればよかったのに、とも不思議とあまり思わない。じゃあ何がどうなっていればよかったんだよ、と我ながら少し腹立たしいような心持ちで、でも結局、何かを言っても無責任で実情を知らない人間らしいバカな言葉にしかならないような気がしていて……うーん。


 この気持ち、どうしてくれよう?


 どうすることもできない、が正解かな。