お腹いっぱい

 寝起きの数分間とともに、満腹の際、知的パフォーマンスの低下が問題視されないことに関しては、全世界的な同意が成立していると言っても過言ではないだろう。

 また、上記の二条件に並び(あるいはその遥か上位に位置づけられるものとして)酩酊状態も序せられて然るべきである。

 わたしは今満腹である。なおかつ、酩酊している。

 わたしは正にこの瞬間書き散らしている文章に対して社会的な責めを負うことがないように祈っている。

 なぜこのような状態で書く文章をインターネット上に公開するのか、という質問に対しては、「だって酔っ払ってるんだもーん」としか答えられない。自分は酩酊をトリガーにして乱暴、暴言の類を自らに許さない人間であることをこれまで誇りとしてきたが、インターネット上についうっかり文章を公開してしまう点では、まだアルコールはトリガーとしての役割を十分に果たしている模様である。げ、突然他にも悪事を働いていたことを思い出してしまったが、ま、それはいいでしょう。

 さて、文章を書き出してはみたものの、後に何を書けばいいのかわからなくなってしまった……。


 あ、そうだ。


 大江健三郎の『同時代ゲーム』を読了したのでその感想でも記しておこう。


 一言で言って、防戦一方であった。イメージの奔流をどうにかこうにかシンボルやメタファーとして読み解こうとするのだが、安易な読解は許さぬとばかりに次々に逸脱していくのである。こちらが混乱しているところに、さらに珠玉のエピソード群が積み重ねられていく。圧倒的。けれどあまりにも負荷を強いるので、読み終えるまでにひどく時間が掛かってしまった。なんだかこれを面白い!と絶賛するのもためらうような(だって、少なくとも自分は要所を理解しているとアピールしているような気がしません?)、そんなもどかしい感想を抱いたのであった。あああ、もうお願いだからこんな小説書かないでくれよー。何を書けばいいのか、誰に向けて書けばいいのかますます分からなくなっていくじゃないか。


 読み終えて一番気になっているのは、舞台とされている四国山中の集落、「谷間」および「在」、それらを取り巻く周囲の地形全体が、まるで女性の下半身を模していたように感じたこと。川は腸、それを塞ぐ「大岩塊、あるいは黒く硬い土の塊」は便秘の詰まり(これに関しては記述がある)、岩鼻は陰核、「死人の道」はナプキンかパンツ、もしくは処女膜のようだった。もう一度しっかりと読み直せば、位置関係は訂正されるかもしれない。


 ……わからん。なんなんだこれはー!ぐおー!全共闘世代の人間はこんなものを揃って読んでたのかよー!ドチクショー!


 はい、見苦しくなってきたので終了。<5/15追記>

 女性器を意味する陰(ほと)には、「山間のくぼんだところ」という意味があるとのこと。また、yahoo!辞書の例文には古事記の文章が引かれており、大江健三郎が『同時代ゲーム』を書くに当たって参照したことは間違いのない、記紀神話に触発されて生まれたイメージであるのかもしれない。

 大江健三郎の小説に神話的形象をまとって登場する「壊す人」は、革命家であり、開拓者であり、「村=国家=小宇宙」の創建者である。物語内の神話的時系列に沿って「壊す人」は伸縮する。始めは通常の人間のサイズであったものが、数百年生き続けるうちに巨人となるも、一転して縮小に移り、最終的には小さく干からびたキノコのようなものになる。それが巫女の力を借りて再び「犬ほどの大きさのもの」にまで回復し、そうして再度成長し始めるのか、というところで『同時代ゲーム』の神話は読み手(妹=巫女、父=神主)を失って頓挫してしまうのである。

 これは「出産」に至ることのなかった「革命」についての物語なのではないだろうか、それは出版された1979年(執筆は当然それ以前に行われているのだ)の読者にとってある特別な思いを喚起したのではないか、政治の季節を生きることのなかった我々世代にも始原的な人間の営みと「歴史の始まり」について思いを伝えようとしていたのではないか、というのが今のところの読解である。


 村の下に横たわる大きな「壊す人」、か。おもしれえなあ。