太宰治/トカトントン

 トカトントン。久しぶりに読み返した卒論には、ところどころ主査だった井桁先生の鉛筆の書き込みがあって、その中にこの一語があった。トカトントン。はてこれは一体どのような意図をもって書き込まれた一語であったか。そのような疑義は卒論を返却されたばかりの自分には提出し得なかったものとみえて、恥ずかしながらこの歳になるまで典拠を知らずに過ごしてしまった。そういや内田先生はどこかで「トカトントンと韜晦する」なんて表現を使っていたっけな。

 検索。ふむ、太宰か。長くもないからさらりと読める。さらりと読めて、どしんと落ちる。くそう、やりやがるなあ太宰。こないだも『走れメロス』をふと読んで落涙させられたものなあ。物語にしかユートピアを求めることのできなかった哀しい哀しい男の書いた話。今ここにないものを求めずにいられない哀しい哀しい人間の性。

 トカトントン。物語の剥落する音。トカトントン。金槌が釘を打って建設する不在の建物。


 トカトントンの響きに呼ばれて、ドストエフスキーサルトルがやってくる。ドストエフスキーが叫ぶ。
「神と真理とどちらを選ぶ?神に決まっているじゃありませんか!1+1=2の真理では人間は救われない!わたしは断固神を選ぶ。神だ!信仰だ!!」
 取り乱すドストエフスキーを眼鏡の奥の斜視でちらりと眺めやるサルトル。彼の手元には『嘔吐』がある。


 トカトントン学生運動に身を投じたインテリたちは、太宰はお好きでなかったか。それとも太宰くらいは当然の教養で、ブルジョアのかっこつけと切り捨てたか。トカトントンノンポリ青年は事ある毎に言ったろう。モラトリアム青年も、事ある毎に言ったろう。これは確かに韜晦だ。


 トカトントン。書きかけの小説は、物語の物語。落ちはハナから決まっていて、これはもう物語が勝利するほかないのだが、どう勝利させるかが一大事だ。シーシュポスでもなく、宗教的回心でもなく、歴史や愛郷心でもなく、ガイアでもなく。エントロピー増大則に抗う生命圏。これはピンチョンさんやドーキンスさんのものだから、勝手に使うわけにはいかないな。あさて、あさて、あさてさてさてさて。トカトントン