被虐趣味

本日の内田先生のブログから、後半部分を自分用に書き換えてみた。



そこから話は逸脱して、次号の特集が「小説家になろう」だというので、「小説家になろうという話はもう止めませんか」という特集に変更することをご提案する。
現代の若者は「自分らしさ」の実現ということを「希望する職業に就くこと」とほとんど同一視している。
だから、「自分らしく生きたいけれど、希望の職業につけない」という没論理な命題が成立する。
自分が作家らしくないのは、主として文学賞がないせいである。
だから文学賞さえ獲れれば「作家らしく生きる」ことが可能だと多くの若者は信じている。
それは違う。
自分が何をこの世界で実現したいのかについて具体的な、手触りのはっきりした計画を持っている人間でなければ、文学賞を獲っても何もできない。
初めて書いた小説で芥川賞を受賞した青年が短期間にその栄誉と作家としての未来の大半を失ったという記事が『群像』に出ていた。
彼はまず「作品を増やそう」と思ってハードルの高い文芸誌に作品を掲載して、あっというまに執筆依頼を失った。
それからキャバクラに通って女の子たちの歓心を買うために作家の肩書きを振り回す。(誰も読んでないけど。)
おそらくあと数年で彼はまたもとの無職に戻るであろう。
彼は「文学賞が欲しい」と思っていた。「作家の肩書きさえあれば、自分らしく生きられる」と思っていた。
でも、いざ肩書きが手に入ったら、原稿依頼の来るままに書き飛ばす以外に、何一つ具体的な使途を考えていなかったことに気づいたのである。
具体的な使途について綿密な計画を立てていない人間に文学賞を渡すと、することは二つしかない。
満足するか、濫発するか、いずれかである。
どちらも「自分の作品の使途の決定権をよく知らない他人に丸投げする」ことである。
言い換えると、「作家らしく生きる」とはどういうふるまいを言うのかを「他人に決めてもらう」ことである。
「作家らしく生きたいのだが、文学賞がもらえない」という若者たちにとって、「作家らしく生きる」ということは要するに文芸誌に連載している作家のふるまい(短編や長編や対談やエッセイや交遊関係や往復書簡や海外滞在記や紀行文や論争などなど)をまねることにすぎない。
彼らはたとえ文学賞を手に入れても満足するか、濫発するか、どちらかを選ぶしかない。
それは上で述べたとおり「自分の使途を他人に決めてもらうこと」である。
「自分の使途を他人に決めてもらうこと」、それが「具体的目的を想像したことがないままに職業を手に入れたすべての人間がやりそうなこと」である以上、そのふるまいが「自分らしく生きる」という定義と二重に背馳するということはすこしでも論理的に思考できる人間であれば、誰にでもわかるはずなのである。
だから、「私が私らしく生きられないのは、希望の職業に就けないせいである」という命題は没論理的であると申し上げたのである。
率直に申し上げるが、「そういうこと」を言っている人間が「作家らしく生きられない」のは、「作家」が何者であり、作家が何をすべきかの決定を他人に委ねて生きているからである。
ほんとうに「作家らしく生きたい」と思っている人間の言葉が「他のワナビーと同じ」であり、市場原理と消費経済にジャストフィットするということは論理的に「ありえない」ということにどうして気づかずにいられるのであろうか。



 優れた哲学者の書く文章の枠組みは悪魔的に汎用性が高い。


 しっかしきついな。


 あんまりオススメしませんけどね、「金」の代わりにお好みのマクガフィンを入れるの。