沈黙について
日参している『ほぼ日刊イトイ新聞』というサイトで、最近「沈黙」ということが頻繁に語られている。吉本隆明が最近行った『芸術言語論』という講演のテーマが
「ことばの幹と根の部分は、沈黙です」
というものであったことに端を発しているらしい。
なんだろうな、どういうことだろうな、と時折思い出しては考えていたら、不意にわかってしまった。ウィトゲンシュタインのお蔭だ。彼はこんな言葉を遺している。
「語りえぬものについては、沈黙せねばならない。」
おそらく吉本隆明にとっての芸術は、「語りえぬものに対しての漸近運動」という形をとっている。「語りえぬもの」とは、「モノ」であり「物自体」であり「真理」であり「生もの」であり「イデア」であり「マロニエの根っこ」だ。そして、この「語りえぬ(はずの)もの」を指し示す言葉をこれだけ羅列できる、という当の事実が、人間知性の一側面を確かに描き出している。
僕が吉本隆明の芸術観に同意できるかどうかは、まだよくわからない。
「わからないほうが幸せなこともある。」
訳知り顔でそんなことを言う人もいる。腹の立つ言葉だ。そういうお前はどれだけわかろうとしてきたんだ、どれだけわかったんだ、だいたいわかるって何だ、幸せって何だ、試しにお前がわかって不幸せになったことを教えてみろよ、ほれみろ大したことねえや、とでも言いたくなるような言葉だと、今までは思っていた。
でも、今は少し違う印象がある。「わかる」ことには、付き合いの長い友人を失うような悲しみがある。種田山頭火の
「まっすぐな道でさみしい」
という詩に、近い心境を感じる。