古典的な事件について
元厚生次官の連続殺人事件が巷を賑わしている。
犯人が自首し動機が明らかになるにつれて、僕はそのあまりにも明確な構図にめまいを覚えた。どうして、これほど典型的な事件が起こってしまうのか。関心はすぐさまメタに移っていいはずだった。
ところが、だ。
ニュースを見ても新聞を読んでも、誰もが同じ言葉で記事を結ぶ。
「犯人の真の動機を解明すべく、尋問が続けられている。」
どうやら、ドストエフスキーとフロイトを読んでいるメディア関係者は皆無であるらしい。すでに必要な情報は出尽くしている。にも関わらず、それが「読めない」。事件そのものよりも、この事態に狼狽する報道陣に対して強い不安を覚える。
この事件で一番重要な鍵は、「小学生時代に保健所に処分されたペット」だ。
この事件が「わからない」人々は、ドストエフスキーの伝記を一冊と『カラマーゾフの兄弟』、それからフロイトの『ドストエフスキーと父親殺し』を読んで、精神分析に対しての見解を改めることを強くお勧めする。
もしも僕がこの件に関してある程度量のある文章を書くのなら、こんな言葉で文章を結ぶだろう。
「父は、決して強くありすぎてはならない。強くあり続けてはならない。」
<11月28日追記>
知り合いの中学生から、「学校の先生に『ドストエフスキー』って知ってる?って訊いたら、『知らない』って言われたよ。」という驚愕情報が。
「え、それ国語の先生?」
「うん。」
…………僕が世間知らずでしたっ!反省っ!
その先生が例外だったのかもしれないけど(国文学に関してはウルトラエキスパートかもしれないし)、ちと自分の「常識」を変える必要がありそうです。
かといって、僕自身の知的欲求を満たさない内容は書きたくないし……。
しかも、ターゲットを定めて分析するようなマーケティング的手法も嫌いだし……。
いろいろ考える必要がありそうです。いやはや。