抑圧 VS 抑圧

 最近、『読んでいない本について堂々と語る方法』という本が出版されたようです。実を言うと、僕はこのごろ、マックス・ヴェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』について、読んだことのない本の書評というスタイルで書いてみようかと思っていたところなので、先手を打たれてしまったようでとても残念でした。(ですので、そのネタについては、どこかの文章にそれとなく紛れ込ませることにします。)


 なぜ、こんなことを書くのか、と申しますと、僕は前回のエントリに挙げたフロイトの論文『ドストエフスキーと父親殺し』を読んだことがないからです。


 けれど、そこに何が書いてあるのか、大体の想像がつきます。


 その論文に言及した文章を、どこかで読んだのかもしれません。


 誰かが話しているのを、聞いたことがあるのかもしれません。


 どちらも僕自身の記憶にはありませんが、フロイトの『無意識』という概念は偉大な発明だと思っていますので、何かしら潜在的な形で僕の記憶の片隅に忍び込んだ可能性は否定しません。


 さて、それでは始めましょうか。


 旧厚生省の事務次官連続殺人事件についてです。


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 この事件のポイントは、先日書いたとおり、


「小学生時代に保健所に処分されたペット」


にあります。


 ですが、この書き方はいかにも不親切でした。報道されている事実により近い形で書くならば、


「小学生のとき、父親が保健所に連絡して勝手に処分したペット」


です。


 犯人の男は、このペットの「仇討ち」のために保健所を管轄していた厚生省の元幹部たちとその妻を殺害しました。そしてその後の自供では、「社会保険庁の幹部も殺害する予定だった」ことをほのめかしています。


 犯人の動機は、いかにも奇妙です。


 想像してみてください。


 小学校から帰宅したあなた。帰ってみると、かわいがっていたペットの姿が見えない。「ねえ、ミント(勝手に命名)がいないよ?」母親は、あなたの言葉に答えようとしません。不気味な沈黙があなたの家を支配します。そこに、父親が帰宅します。いつもより早い帰宅です。


「ねえパパ、ミントがどこにもいないよ?どこ行っちゃったの?」


「ミントはね、保健所の人が来て連れて行っちゃったんだ。ミントはかわいらしい犬だったけど、本当は悪い犬だったんだよ。だから連れて行かれちゃったんだ。」


「そんな!どうして!どこが!ミントが悪い犬のはずがないじゃないか!」


「ヨシオ(犯人の名前は知りません)、聞きなさい。保健所の人たちは特殊な装置を持っていて、それを使えばいい犬と悪い犬が見分けられる。でも、それは保健所の人しか使うことができないんだ。私たちは、その装置が表示した結果に従うことしかできない。」


「そんな……そんな……。」



 想像が行き過ぎました。


 実際に交わされた会話は、こんなところでしょうか。


「お父さん、ミント……。」


「男があんな雑種のことでガタガタ騒ぐんじゃない!あんな犬はうちにはいらん!」


 ヨシオは反論できません。


 なぜなら、ヨシオの父はすでに、ヨシオの心を、絶対に歯向かうことができなくなるまで打ちのめしてしまったからです。


 ヨシオの心には、「抑圧」があります。


 父は、憎んではならない。父は私を作った人物であり、私を育てた人物であり、決して超えることのできない存在である。


 ヨシオの心には、そんな規律が刻み込まれています。


 けれど、ヨシオの心はミントを失った事実を、うまく処理することができません。ミントが、あまりにも愛しい存在だったから。ヨシオが散歩に連れて行こうとすると、ちぎれるほどに尻尾を振ったから。誰も認めてくれないヨシオを、唯一愛してくれる存在だったから。


 だから、ヨシオの心は「犯人」を作らずにはいられませんでした。


 処理できない気持ちの、行き先を探さずにはいられませんでした。


 それが保健所です。


 ですが、それだけでは犯行を説明することができません。


 なぜ、保健所を襲撃せずに、厚生省官僚のトップだった人物を狙ったのでしょう。そこが次の問題です。


 ヨシオは、父に言われたとおりの、笑みを絶やさぬ少年として成長していきました。学校の成績は優秀で、国立大学に進学します。


 そこで、ヨシオは留年します。そしてすぐに退学します。


 ヨシオが「留年したから挫折したのか」、「挫折したから留年したのか」は判断することが出来ません。僕は後者がやや優勢かと思います。


 ともあれ、ヨシオはそれから「仕事が長続きせず」「父とほとんど連絡を取らず」「住所を転々として」「クレーマーとして近所から恐れられる」ような人間として四半世紀を生きました。家業を継がせようとした父が呼び寄せたこともありましたが、その仕事も長続きしませんでした。


 ヨシオは、一体何に苦しんでいたのでしょうか?


 「あまりにも矮小な自分」に苦しんでいました。


 「父」の存在に、苦しんでいました。


 この「父」は、生物学上の父だけを意味していません。かといって、神学上の父だけを意味しているわけでもありません。どちらでもありながら、そのどちらでもないような「父」です。僕にもよくわかっていないのですが、おそらくこの表現で問題ないと思います。


 ヨシオは、苦しみのあまり、「正義」に向かいました。


 自分が「正義」だと信じられる刹那のためだけに、他人を罵倒しました。


 誰もが認める「社会悪」を倒すことが、彼の正義になりました。


 そこで登場するのが「厚生省」「社会保険庁」です。


 彼はそのトップだった人間を調べ上げ、殺害しました。


 そして自首しました。


 「自己犠牲」を伴う「社会悪の撲滅」を実現する人物こそが、彼にとって「理想のヒーロー」だったからです。


 メディアにこの事件が「わからない」のは、この構図を論理的に理解できないからではありませんでした。


 彼らには「わかれない」のです。


 そこにも抑圧があるからです。


 この件についてさらに詳しくお知りになりたい方は、「森鴎外」「麦飯」で検索をしてみると、興味深い事実に突き当たるかもしれません。


 僕がこの事件の記事を一読して感じたのは、おおよそこのようなことです。


 一応、この文章も藪の中に入れておきましょうか?




 犯人の父は、「ペットは自然死した」と言っています。




 さて、抑圧はどこにあるのでしょう?




<12月2日追記>


 保健所は自治体の管轄だったんですね。色んな意味でキツイ事件です。


 ただ、フロイトに触れた方は発見しました