現場編 6
六日目 埼玉県某市 倉庫
作業内容:検品
おなじみの倉庫へ。四度目にして、派遣会社から、駅前で一旦合流してから集団で現場に向かってください、という指導を受けなくなる。現場に一人で直行しても構わないのだそうだ。遅刻せず、道順に不安さえなければ、仕事開始直前の現場到着でもいいですよ、という事なのだと都合よく解釈する。
と、考えたところまでは覚えているのだが、実際にどう行ったのか、まったく記憶にない。たぶん一本遅いバスを選んで、わずかなゆとりを楽しんだのだとは思う。確信はない。今この文章を書いている時点で、現場に行ってから二ヶ月近い時間が経っている。だから忘れちゃったんだよ、と言うのは簡単なことだ。けれど僕は、少しややこしい事も書いておきたい。
それまでの三度で仕事開始までの道程は完全に「自動化」した。僕に内蔵された情報処理機構は、四度目の通勤を必要な情報としてメモリに書き込むことを拒否した。僕はおそらく、忘却すらしていない。そう思うのは、その他の記憶が──特に「人間」に関わる情報が──あまりにも生々しく残っているからだ。新たに出会った人間とのやり取りと、その時頭の中を流れていたモノローグ。人間を起点にエピソード記憶として編集された映像ばかりが、僕の中で繰り返し再生されている。
今回の仕事は、初回と管轄している会社が同じだ。この会社には不思議なところが一つある。倉庫内の作業現場近くで一旦点呼を取ってから、十分以上指揮担当の社員がいなくなってしまうのだ。こちらはただブラブラしながら時間を潰すしかない。だったら最初から開始時間を遅らせればいいのに、とは思うものの、「おまけ」の時間は同僚の姿を確認するのに都合がいいのも事実だ。
今日のメンバーは、僕も含めて五人。二十歳前後の男の子が二人。女の子が一人。もう一人年配の女性がいるらしいけれど、点呼には間に合わなかった(その人とは、結局仕事が終わるまでろくに顔も合わせなかった)。前にも遅刻者はいたような気がする。あまりうるさいことは言わない会社なんだろう。現場経験アリは僕一人。しかも実質最年長。何かと面倒な事になりそうなので、空いた時間は彼らから少し離れたところでボンヤリする。女の子も男二人からは距離を置いていて、積み上げられたダンボールと柱の隙間みたいなところに、ポツンと体育座りをしている。それを見ただけで笑いがこみ上げてきて、思わず近づいて話しかけてしまう。
「そのあたりがリラックススペース?」
素直にコクリと肯くものだから、軽く吹き出す。僕はきっと、親近感を覚えたのだろう。
ようやく社員が戻ってきた。経験者は?という質問に、僕一人が手を挙げる。
「じゃあ、あなたは下の階で靴の検品チームに加わってください。」
了解。僕は階段を降りて、前に使った検針機のほうに向かって歩く。あ、いたいた、あのおばちゃんだ。よろしくお願いしまーす、と声を掛けると、まずはこれから検針機に通す靴の整理を指示される。パレットに積まれた品物を、ハンドルの付いていない小さな台車の上に積み替える。そして検針機のそばに持っていって、検品の準備を済ませるわけだ。
その「ハンドルの付いていない小さな台車」を、誰も同じ名前で呼んでいないのが気になる。プラスチック製で、30×50センチくらいの長方形の両端には、片手で持って運ぶための穴が開いている。下面に車輪が四つ付いて、少量の荷物を運ぶのに便利な代物だ。コロコロ、ローリー、キャスター、緑のヤツ、色んな名前が飛び交う。まだこの倉庫に導入されてそれほど時間が経っていないのかもしれない。正式名称を知らないのは僕も同じなので、コロコロと呼ぶ人の前ではコロコロと呼び、ローリーと呼ぶ人の前ではローリーと呼ぶことにする。(販売業者のHPを見ると、「平台車」という名称で売られている。)
ひとまず整理は済んで、検品作業が始まった。前は「検針機」が中心だったけど、今回は「X線検査機」が中心だ。これならわざわざ靴箱を開けなくても、内部まで透視できる。分厚い靴底に隠れた異物も見逃す心配はない、ってことか。ただの検針機よりもずいぶん高級感に溢れた機械の前で、これ、高いんだろうなあ、こんなに厳重にチェックされる商品もあるんだなあ、と認識を新たにする。でも、なんでこの作業を倉庫で?
ダンボールを開梱して一つ一つの靴箱を検査機に通す。それを再度箱詰めして、チェックシートに「X線検査済み」と記入していく。僕は箱詰めしてガムテープで封をし、空いた平台車の上にまた積んでいく。ふっ、チョロイぜっ!と思ったら、意外と速いペースで靴が流れてくる。あたふたしながら、なんとかあまり溜めないように作業を進める。
「ごめん、これ大急ぎなんだよ!ちょっと割り込ませてくれない?」
別の部署から、検品を急ぐ品物が持ち込まれたりもする。しょーがないわねー、なんて言いながら、おばちゃんたちは靴の検品を一時中断して、先に服だの手袋だのの検品をする。中には五万円以上の値札がついた高級ブランド品があったりして、度肝を抜かれる。何しろこちらはどんな品も同じように機械に通すだけだ。付加価値が生まれるのはここじゃない。ついついブランド名やデザイン、素材名の書かれたタグにヒントを求めてしまう。あ、アンゴラですか。うーん。
と、ここでトラブル発生。検品すべき靴がなくなってしまったのだ。どうも僕が整理したのは、今日検品しなければいけない製品の一部でしかなかったらしい。途中で追加されるはずだった残りの製品を積んだトラックが、渋滞か何かで到着していないのだとか。
そんなわけで、一旦他の派遣の人たちと合流して、別の作業をすることになった。上階に行くと、積み上げられたダンボールの陰に彼らの姿を見つける。歩いて近づきながら、空気が徐々に淀んでいくのを感じる。水中を歩くような重みが、手足に絡みつく。なんだ、こいつら、動きが、すげー、遅いぞ。
「あのー、一旦こっちに協力するように指示を受けてきたんですけど、今やってるのはどんな作業なんですか?」
誰も答えない。仕方がないから、男二人のうち、背が高くてパッとしないほうに近づいて「あなたに訊いています」というアピールをする。そしたらこっちを見た。
「ダンボールをこのカッターで開けて、中のカバンの数を数えて……それがダンボールの外側に書いてある数字と合っていたら、問題なしってことでコッチのパレットに移します。」
なるほど、それだけでいいんですね。じゃあ、サクサクやりましょうか。
と思うのだけど、「専用カッター」とやらに問題がある。とにかく異常に切れ味が悪い。一人が開けているうちに、僕ともう一人が手持ち無沙汰になるケースが頻繁に発生する。我慢しきれなくなって、また質問する。
「あの、そのカッター以外は使っちゃいけないとか、言われました?」
二人ともはっきり答えない。じゃ、自分のカッター持ってきます、と荷物置き場までひとっ走りして、カッターを持って帰る。軽作業に軍手とカッターは必需品だ。会社からもそう指示されている。
「あ、持って来ちゃったんですか〜。このカッターを使うように言われてるんですけどね。」
背の高いほうが、うすら笑いを浮かべながら、戻ってきたばかりの僕に言う。だから、さっき訊いたじゃないか。小走りで往復してきたのは無駄だったのかな?だとすれば、キミたちが曖昧な返事をしたことが、僕の無駄な運動の原因だよ。その笑い、何?
いけない、ハイ、深呼吸深呼吸。いやだよねえ、すぐ怒っちゃったりして。気を取り直して、軽口でも叩いてみるか。作業に取り掛かりながら、僕は何気なく話しかける。
「いいよねー、倉庫って広々としてて。」
あん?という感じで二人が振り向く。すでに「敵」認定されている。そんなことをして、彼らにどんなメリットがあるのかはわからない。
「隠れるところがたくさんあって、悪いことしたくなっちゃうな。」
僕は少し離れたところで作業している女性工員たちにチラリと視線を送る。かわいい女の子たちと、お友達になったりできないかしら。
「なんすか、悪いことって。」
相手してらんねえ、とばかりに背の低いほうがプイと横を向く。
はあ、とため息の一つもつきたくなる。
いや、いいんだ。わかってるから。
要するに、キミらは働くのが嫌いなんだよね。だけど、プライドだけはあるんだ。僕が一所懸命働くと、キミたちは比較の対象になって「できない」と思われる。だから、僕のモチベーションを下げて「みんな同じくらいできない」状態を作りたいんだろ?それでも、事実誰が困るわけでもない。僕たちは、時間通り働けば金が手に入る。派遣先の会社の人間だって、最初のうちはイラつくかもしれないけど、そのうち一人当たりに期待する作業量を少なく見積もるようになるだろうね。派遣会社は、同じ作業に対して受注する人数がじわりじわりと増えて、一時的に収入が増えたりするかもしれない。
でも、それってホントにうまくいくのかな?だって、派遣会社ってたくさんあるでしょ?日雇いを使う会社の人間だってバカじゃない。経費が増えて利益が圧迫されれば、試しに別の派遣会社を使ってみようと思うんじゃないかな?その時、その派遣会社からも、キミたちみたいな「できるだけ動きたくない」人間が送られてくるのかな?もしも「働くのがそれほど嫌いじゃない」人たちが来たら、もう僕らの登録してる派遣会社には仕事を依頼しないと思うよ。そうしたら、僕たちが仕事をもらう機会って、少なくなるよね?キミたちの大好きなお金、もらえなくなるんじゃない?
あ、違う可能性もあるね。キミらはあの、点呼を取った年配社員なら厳しいことは一切言わないと見切ったのか。うん、確かに人の良さそうなタイプだった。なるほど、そうやって「これだけやっておけば怒られない」最低限のラインを一瞬で見極める技術ってものもあるよね。僕は持ってないや、そーゆうの。あんまり興味もないみたい。
だってホラ、僕キミらと話しても何も面白くないもの。
あ、ごめんごめん。キミたちだって僕とは話したくないよね。うんうん、キミたちが先だったよ。僕はきっと、キミたちに馬鹿にされてるのとか、キミたちに相手にされてないのとかが悲しくて、「ボクだって話したくなんかないやいっ」って思ってるだけなんだよ。
ただ、それだけだよ、きっと。
その割りに、腹の底では結構過激に「この乞食野郎」とか、思っちゃってるんだけどさ。言われないことは、気にならないんでしょ?なら、僕が何を考えていようと、口にさえしなければ大丈夫だよね。あ、安心しなよ、態度にも出さないから。いいなあ。僕は、軽蔑されるのが怖くて真似できない。軽蔑するのは自分自身だってわかってても、真似できないよ。
折角持ってきたのだし、彼らがわざわざ確認するために誰かのところに行ったとも考えにくい。僕はそのまま自前のカッターで作業を始めることにする。注意されたら、その時やめればいいだけの話だ。
案の定、様子を見に来た社員が僕のカッターに目を留める。
「あれ、それどこから持ってきたの?」
「えーっと……私物です。」
「ダメだよー、アレ使わないと。」
おじさんは「専用カッター」を指差して言う。
「でもあのカッター、切れ味最悪じゃありませんか?」
「まあそうだけどさあ。」
「中のバッグに傷さえ付けなければ、何も問題ないような気がするんですけど……。」
「でも使っちゃいけないことになってるんだよ。俺たちだって、使ってよければ使ってるさあ。でも会社がダメだって言うんだからしょうがない。」
そうですか。わかりました。僕はカッターをポケットに入れながら後ろを振り向いて、「キミらが正解だったよ」と声を掛ける。それにしても、わざわざ作業効率が落ちるような道具を使ってストレスを溜めてるのに、どうして働きかけようと思わないんだろう。そこが納得いかない。
女の子は、一人チェックシートに細々とした記号を書き込んでいる。その作業が一段落したところで、作業済みのダンボールにチェックを入れるための、太い黒ペンが必要だと言い出した。
言い出した、だけ。
じゃ、僕が取ってきますねー。またパタパタと小走りで、階下にあった事務室へ急ぐ。失礼します!派遣のものですが、作業に太い黒ペンが必要になりました。もしあるようでしたら、お貸しいただけないでしょうか?パソコンとにらめっこしていたうちの一人が、壁際の引き出しをごそごそ探る。はい、これ。ありがとうございます。作業が終わり次第お返しします。
上階に戻る。背の低いほうの男の子が何事か喋っていて、他の二人が笑っている。僕が視界に入ったとたんに「ヤベッ」とばかりにお喋りは止んで彼は後ろを向き、笑い声も収まる。ずいぶん徹底してるなあ、僕に陰口を叩いていたことまで教えてくれるなんて。どうやらキミらしいね、このダルい空気を作り上げているのは。
そのまま作業は続いて、昼休みになった。三人を食堂に案内してから近くのパン屋で昼飯を買い、戻って同じテーブルでモソモソ食べる。特に話すことはない。さっさと切り上げて、喫煙所でタバコをふかしていたら、背の高いほうがやってきた。あ、お疲れ様です。
メンドクサイなあ。
「ここって、どうですか?他の現場に比べて楽なほうなんですか?」
「楽なほうだと思いますよ。」
あの作業で大変だなんて言われても、こっちが困るよ。
「色んな現場行ったんですか?」
「いや、これで六回目……かな?」
「どこが一番楽でした?」
「うーん……今日が一番楽かも知れない。」
彼の顔が明るくなる。「オレ、ツイテル!」そんな声が聞こえてきそうだ。
「楽な仕事が好きなら、現場に着く前にわかる方法がありますよ。」
「なんですか、それ?」
「メンバーに女性がいる仕事は、はっきり言って楽です。」
「ですよねー!」
と言いながらひとしきり喜んだあと、彼は不安げに付け加える。
「でも、現場に到着してから男だけ別の仕事をさせられる可能性も、ありますよね。」
「あると思います、残念ながら。」
僕はニッコリと笑いながら答える。やべ、またイラついてきた。話変えるか。
「まだ、この仕事始めて日が浅いんですか?」
「はい、これが初めてです。」
「あ、そーなんだ。そんなに心配することないですよ。ここ楽だなーと思ったら、そこだけ行ってりゃいいんだから。」
僕は違う現場を日々巡るほうが楽しい。あのポリスチレンみたいなところもあるけど、終わってしまえば全部ネタになるし。
「これまでは、何か別のお仕事されてたんですか?それとも、学校?」
「公務員試験の勉強をしてたんですけど、受からなくて……。」
僕はすっかり冷たくなってしまっている。
彼が本気で勉強していたとはとても信じられない。単に引きこもってただけだろ、としか思わない。引きこもりなら引きこもりで、好きなことばっかり徹底的にやっててくれりゃあ面白いのに。どうせそんなこともしてない。だけど、プライドがあって、引きこもりは恥ずかしいことだという固定観念があって、だから「勉強してた」って嘘をついてるんだろ?いらないよ、そんなもん。ニカッと笑って「あ、ニートしてました」って言えば、みんな笑って、説教なんかしやしない。だってここは現場なんだから。あ、お願いだから考え直したりしないでね。キミみたいな人には、公務員になってほしくないから。
「じゃ、ここをステップに、まずは就職活動ですね。」
「ええ、そうするつもりです。」
「就職活動資金は大丈夫?」
「いやいや、別にそんなに困ってるわけじゃないですよ。第一、そんなにお金の掛かることでもないし。」
「あ、そう?スーツとか鞄とか革靴とか、持ってなければソコソコ掛かると思うけど。」
「いやいやいや、持ってます持ってます。」
慌てぶりが可笑しい。貧乏だと思われるのは恥ずかしいんだなあ。じゃあ、頑張ってくださいね、と適当に話を終わらせて、僕は彼の繰り返した「楽」という言葉について考える。彼はきっと、背の低いほうから「楽な現場」とか「おいしい現場」の話をたくさん聞いて、影響を受けたんだろう。よく覚えていないけど、時給は現場によっていくらいくらで、なんて話もしていた気がする。とにかく「楽」で、「時給が高い」仕事。彼らが欲しいのはそれだけだ。別にわるかない。僕みたいに、仕事に「やりがい」とか「面白味」とか「気持ちのいい人物」とか「見たことのない風景」とか「世界を把握すること」とか「知性」とか「人間性の追究」とか「文化の発展」とか「人の興奮する顔」とか「人類の幸福」とか「信頼関係」とか「自尊心の満足」とか「絶え間ない変化」とか「レゾンデートル」とか「唯一性」とか、とにかく多くを求めてきたような馬鹿者よりは、よっぽどまともだ。
……ハイ、書いててウンザリしました。
僕だって「楽」は好きだ。うちではゆるーい服しか着ないし、お風呂にはのんびり浸かっていたい。重いものよりは軽いものが好きだし、遠くよりは近くに行く。ごちゃごちゃ考えるよりはスパッと割り切りたいし(あんまりできてないけど)、何度も説明しなければいけない相手よりも、そりゃ一度でわかってくれる人のほうがいい。
「楽」は一時的な慰めをくれる。それは確かだ。でも、どこかに連れて行ってくれることはない。もっぱら「知」に関連した話の中で、僕は賢い人たちに教えてもらった。もしかしたら同じ事は、「身体」に対しても言えるのかもしれない。
僕らが今やってるのは、「仕事」だ。仕事ってのは、自分が楽をすることじゃなくて、人を楽にすることだ。だから僕らは報酬をもらえる。「楽」を求める場所が、違うんじゃないのかなあ?いや、別に仕事はキツくて辛くてしかめ面してやるのが当たり前だ、なんて言ってるんじゃない。むしろ僕は、そういう風にしか仕事を捉えていない人たちに、事ある毎に反感を抱いてきた。(だって僕にまで要求してくるんだもの。)そうじゃない仕事のやり方があるという事も、今なら知っている。後に続く人間の苦労を、少しでも減らそうと心を砕く人だって、いる。
そんな事を考えて、けれど、僕には伝える力がない。彼らと一緒に働く時間から、少しでも苦痛を取り除くための努力をする、そんな気力はすっかり萎えてしまった。
僕はへなちょこなんだよ。身体以上に、心が。
しばらくダンボールを開けて鞄を数える作業を続けていたら、ようやく下に残りの靴が届いたらしい。また、元の作業に戻るように指示を受ける。
やっと、アイツらから解放された。
再び、大急ぎで靴箱をダンボールに詰め込みながら、こっちのほうがずっと楽だ、と痛感する。作業量じゃない。重さでもない。拘束される時間の長さでもない。人だ。一緒に働く人間が、僕の疲れを死活的に左右する。
監督している社員が、忙しく立ち働く僕たちを見て、「上から一人連れてきたほうが良さそうだね」と呟く。やめてください、とは言えない。
背の低いほうがやってくる。
期待通りの仕事振りだ。指示された事以外には、絶対に手を出さない。周囲にどれだけ忙しそうにしている人がいても、見ない。僕が説明を受けていても、一緒に聞こうとしない。メンバー一人一人の負荷を均等に近付け、作業効率を最大化する、そういう「当たり前」は彼の頭にないようだ。
彼は言われた事だけを、最大限の時間を使って、ゆっくりと実行する。
その動きを眺めながら、僕は内田先生の説く「消費文化イデオロギー」というものを、初めて理解したような気がした。
白い、七分袖のTシャツ。ネックレス、指輪、腕時計。細かいグラデーションを施された、鳶色の髪。ワックスで丁寧に整えられた髪型。服とアクセサリー、髪型の組み合わせは、僕の目にはとても洗練されているように映る。顔立ちもきれいだ。彼は確実にハンサムの部類に入る。
けれどそれは、あらゆる意味合いでエコノミーの産物だ。
彼は動くことなく、語ることなく、優れた人間であることを証明しようとする。そのために、自らを飾る。ただ購入しただけの品物で、自分はクールでスマートでファッショナブルな人間なのだと表現するために。
緩慢な動作。
自分の動きには一切の無駄がなく、優美そのものだ。と、彼は思っているかもしれない。僕にはそれが、怠惰そのものにしか見えない。あるいは「オレの動作は高いんだよ」と言っているようにも見える。自分の能力と労力と付加価値と報酬の相関を、明らかに誤解している。
小さな声。
自分が話すのは重要で傾聴に値する事柄のみだ。と、彼は思っているかもしれない。僕には内容および語彙に対しての自信のなさにしか見えない。自分の言葉を聞くために近付いてくる人や、聞き返すために「なに?」と声を発する人に対しての幼児的な権力欲求にしか見えない。
居丈高な態度。
自分は尊重されて然るべき人間である。と、彼は思っているかもしれない。なぜそう思うのかはわからない。仕事中、派遣会社への勤務報告について僕に尋ねてきたから答えたのだけれど、彼は終始不愉快そうだった。何か、僕から知識を与えられている事に憤りを覚えているようでもあった。彼の知らない言葉を使うのは、すべて僕の説明能力の欠如に原因があるらしかった。
そんな印象は、もしかしたら僕の誤解なのかもしれない。
ただ僕は、きっと二度と会うことのない彼に対して、こんな事を思った。
彼は自らの人間的価値を「外部化」した。
けれど僕は、その外部化されたアイテムを「読み解く」ためのコンテクストを知らない。
だから、彼の内面を覗こうとする。
そこには、何もない。少なくとも僕には、何も見えない。
「消費文化イデオロギー」は、昆虫みたいな外骨格ヤローや女を大量生産したのか、と思いながら作業を続ける。
そこから後の記憶は、もう失われてしまった。
記憶すら、していなかったのかもしれない。