現場編 8(続き)

 今度はでかいトレーラーだ。降りてきたドライバーは若いアンちゃん。折りたたんだ白いタオルを額に巻いて、一見チーマー風(懐かしいですね)にも見える。


 長いコンテナを、掘り進むように荷降ろししていく。コンテナいっぱいに詰め込んである返本のダンボールは、トラックと違ってカゴ車には積まれていない。作業はコンテナとベルトコンベアを往復する形で続く。徐々に往復する距離が伸びていく。


 すると、隣のラインにいたアルバイトさんとOさんが、ベルトコンベアの脇に立てかけてあったはしご状のローラーを持ち出してきた。はしごの一段一段がクルクル回転するようになった、ローラーコンベアとか、フリーコンベアと呼ばれるモノらしい。その一端をベルトコンベアに引っ掛け、もう一端をスタンドで立てる。その上にダンボールを置いてみると、スルスルとベルトコンベアに向かって滑り落ちていく。実に便利だ。見ればローラーコンベアはまだいくつも用意されていて、これならコンテナの一番奥でも心配ない。


 ガッシャン、シャー、ガッシャン、シャーと調子よく荷降ろしを続けていると、またベルトコンベアが止まった。ローラーコンベアの上をダンボールでいっぱいにして、また動き出したときすぐに追加できるよう、そばにダンボールを積み上げる。まだベルトコンベアは止まったままだ。


 その時、昼休みを知らせるチャイムが鳴り響いた。


 お、もう半分終わっちゃったのか。ドライバーさんに一声掛けてからコンテナを出る。わーい、お昼お昼♪とはしゃぐほどの昼食ではないけれど(来る途中で買ったおにぎりだし)、仕事から解放されたのを素直に喜ぶ。


 更衣室に向かう途中で、他のラインで働いていた派遣さんに「お疲れ様でーす!」と声を掛ける。その人が笑顔で「お疲れ様です」と返してくれたので、「この人はいい人に違いない」と内心密かに思う。いやー、ここは他の現場よりもちょっとキツイですねー。ホントホント、もう指がプルプル震えてますよー。笑いながら、そんな話をする。それだけで、少しずつ疲れが癒えていくような気がする。


 おにぎりを入れたビニール袋を提げて、三階にある食堂に。


 お昼はその人と食べた。その人は、日雇い派遣の他に、ファストフードでもアルバイトをしているらしい。その合間には就職活動。実家でぬくぬくと暮らしている僕よりも、ずっと厳しい生活をしている。色々と聞いているうちに、その人が今住んでいるのが僕が中高生の時に住んでいた公団住宅であることが判明。ぐっと親近感が増す。


「今、3DKに一人暮らしなんです。」


「え?それは羨ましいご身分……というより、派遣とバイトの給料だと、家賃が苦しくありませんか?」


「そうなんですよ。会社勤めしてたときに暮らし始めたところなんですけど、今は引っ越そうかな、と思ってて。」


「あー、でも引越しするにも元手が必要ですよね。じゃあ、ガンガン働いて引越し資金稼ぎだ!」


 おー!と二人で気勢を上げて、わはははと笑う。


 笑いながら、あ、この人離婚して(たぶんその前後に会社も辞めることになって)、慰謝料払って、子供と奥さんの出て行ったがらんどうみたいな部屋に一人で住んでるんだ、と何となく思った。あんまり、その辺りには触れないようにしよう。


 彼はタバコを吸わない人だったので、食堂からは一人で出た。一階の自販機の前にはベンチが並んでいて灰皿もある。僕はそこに、他の作業者たちに混じって座り込み、アイスコーヒー片手にタバコをふかした。聞こえてくる周囲の会話──パチンコや酒や女の話、だったような気がする──には、特に興味を持てそうなものもない。


 ぼんやりと、高橋源一郎のことを考える。


 確か、あの人は十年近く工場で働いていたはずだ。同僚とは、文学の話はしなかっただろう。競馬の話はたくさんしただろう。どんな気持ちで、働いていたんだろう。年末こたつに入って中島みゆきの曲を聴きながら、「そうだ小説書こう」と思い立って毎晩書いて、最初に書き上げたのが『夏の最後の砦』でその次が『ジョン・レノンと火星人』で、『ジョン〜』をポストに投函するときに「これで受賞だな」と思ったけど落選して、その次に書いた『さよならギャングたち』で受賞したんだっけ。すごいよなあ、毎晩書くって決めたらホントに書けちゃうんだから。僕もそのくらい書けてたら、作家になれたのかな。時間は十分あったのに、どうして書けなかったんだろう。どうして、ディスプレイに向かっても向かっても、指が止まってしまったんだろう。どうして、他のサイトを見てばかりいたんだろう。どうして、ゲームばかりしていたんだろう。どうして、書くのをやめてしまったんだろう。どうして、毎晩酒を飲んだんだろう。どうして、寝てばかりいたんだろう。どうして、友達の家でゴロゴロしてたんだろう。


 僕にはずっと、しなければいけないことがあった。


 誰から強制されたのでもない、自分自身で課した義務が。


 それを怠り続けて今に至る。無一文で、実家と友達だけが頼りなくせに恩知らずで、せっかく出会えた人たちの期待も裏切り続けてる。愚図で馬鹿で甘えてて、そのくせ口ぶりだけは一人前。


 どうかしてる。


 ホントどうかしてるよ。





 どんなに落ち込んでも、必ず「次にやらなければいけないこと」があるのが仕事の素晴らしいところだ。昼休みの終了を告げるチャイムが鳴り響いて、僕は三本目のタバコを灰皿に捨てた。僕は、本を捨てに、ベルトコンベアまで走った。


 午後も引き続き、アンちゃんと二人でコンテナの荷降ろし。ガッシャンガッシャンとダンボールを投げ捨て、ジリジリ奥へと掘り進む。ある程度進んだら、見よう見まねでローラーコンベアを追加。このローラーコンベアが、実はすごく重いのだ。ふらふらよたよた、頼りない足取りで運ぶ僕を見て、アンちゃんが辛抱たまらんとばかりに噴き出す。


「なんだよ、そのぐらいで。」


 笑ってもらえると助かる。静かにイライラされるよりも、ずっといい。


「いやあ、これでも全力なんですよ。」


「ここで働くの、今日初めて?」


「はい。午前だけでくたばりかけてます。」


「まあ、頑張りな。」


 アンちゃんはニヤニヤ笑いながら、勢いよくダンボールを放り投げる。明らかに馬鹿にされているのだけど、全然気分は悪くない。さっきのおっちゃんは自慢げなところがないから好きだと思ったんだけど、僕の好き嫌いはそこでは決まっていないらしい。


 ベルトコンベアが止まると、アンちゃんは手近なダンボールを二つ重ねてその上にドカッと腰を下ろす。多少ダンボールが潰れようが気にする素振りは見せない。それどころか、僕にも勧めてくる始末だ。


「あーあ、バイクいじりてえなあ。」


「え、バイク、お好きなんですか?」


「うん、好きよ。オレ、ハーレー持っとるんだわ。休みはいっつもハーレーで遊んどる。いじるか、乗り回すかして。」


 おお、ハーレーダビッドソン


「すんごいですね。仕事で車乗って、遊びでバイク乗って。どんだけ移動してんだ、って感じじゃありません?」


「うんまあ、車でもバイクでも女でも、とにかく乗るもんが大好きでさ。」


 ぶわはははははは!


「いまちょっと改造に出しとって、この週末に帰ってくるんだわ。いやー、早く触りたいわ。」


「そんなにいいバイクだと、悪ガキに悪戯されたりしません?」


「いや、ガレージ借りとるから。誰にも触らせん。」


「なーんか、愛人囲ってるみたいですね。」


「あっは!まあ金は掛かるわ。今回の改造代も7、80万はいっとるからね。」


「うわっ!改造だけでそんなに?!もう一台バイク買えちゃうんじゃないですか?」


「そうかもしれんね。ま、構わんけど。」


「うわ、余裕ですね。ご結婚はされてるんですか?」


「うん、しとるよ。子供もおるし。」


「奥さんに色々言われません?」


「言うこともあるけど、まあ好きにやらせてもらってる。そこは感謝してるね。」


「へえー、いい奥さんですねー。」


「ん?うーん。」


 「そこ」は感謝してるけど、他はそれほどでもないらしい。


「まあ結婚も二度目だから。こっちもあまり無茶は言わんようになったかな。」


「え、そうなんですか。」


「うん、前にも一度結婚して子供もいた。」


「あらー、ウチの兄貴みたいだなあ。」


「え?」


「兄貴がいるんですけど、二回結婚して二回離婚してるんですよ。それぞれの結婚で一人ずつ子供作ってるんですけど、両方先方に引き取られちゃって。最初の子とは、もう会ってもいないみたいです。」


「あららららら。」


「離婚、しないで下さいね。」


 離婚したほうがお互い幸福なケースもあるんだろうけど、ついこんな言葉が口を突いて出る。アンちゃんはしばらく考えて、


「ま、いいわ。オレはハーレーさえあれば。」


と呟く。


「憧れって、無くなるもんですかね。実際に結婚生活を送ってると。女性って、結婚するとそんなに変わりますか。」


「今の嫁さんは、変わったかな。でもまあ、ホントにそんなに不満はないんよ。オレは、普通にやっていければそれが一番だと思ってるから。」


 普通でいいと思う人が、ハーレーにそれほどの愛情と資金を注ぐのだろうか。


 アンちゃんとは、その後もたくさん話をした。僕は今でもアンちゃんにとても詳しい。アンちゃんは北海道出身で大手運送会社勤務。北海道には仕事がなくて賃金も安いらしく、「仕事なんて、片手くらい貰わんとつまらんわ」というアンちゃんの暮らせる土地ではなかった。今は関東を走り回る大型車のドライバーとして活躍していて、実家に帰るのは年に二回ほど。それはちょっと寂しいと思っている。
 同僚と親しくなるような職場でもないけれど、多少の情報交換はしている。やっぱりドライバーのほとんどは腰が悪いらしい。そこはみんな諦めていて、いいマッサージ屋を教えあったりしている。夏場のコンテナ内は、陽射しで40度以上の灼熱地獄になることも稀ではない。今年の夏も、熱射病で2、3人が作業中に倒れた。
 アンちゃんはとにかくハーレーが好きで、お金も手間もかけて改造しまくっている。ハーレー好き、バイク好きの集まるようなところに持っていくと「うわー、すっげえ」と人がワラワラ集まってくるけど、それにも最近飽きてきた。今はマッチョなアメリカンスタイルのかっこよさではなく、日本的なかっこよさを追求しようかと思っている(そういうものがあるらしい)。バイク雑誌のコンテストに応募したことはないけれど、アンちゃん曰く「オレのバイク、世界一かっこいいんだわ」。僕はその言葉を聞いて大興奮してしまい、「うわー、僕も世界一ほしー!」とか言いながらはしゃぎまくる(バカ)。最近不満なのはディーラーの態度で、自分でメンテナンスやパーツの付け替えができる人間をまったく歓迎してくれないらしい。彼らが歓迎するのは自分で一切作業しない金払いのいい人間だけ。


「ええー、なんてゆーか、ロマンのない話ですねー。」


「まーね。」


「だって、バイクって言ったら、ボロボロの修理工場にいるジジイが実は超凄腕のマッドサイエンティストみたいなので、そこにバイク持って行くと、『へっ、小僧、多少はバイクのことわかってるらしいな』とかなんとか言われてものすごいチューンナップされてターボチャージャーだのニトロだの積んだスーパーマシンに生まれ変わって、発進するとドギュンッて加速して『ちっ、とんでもねえ暴れ馬になりやがった』とか言いながら伝説作っちゃったりするんじゃないんですか?」


「……映画の見過ぎ?」


アンちゃんはクールだ。


「ニトロ使うと、バイクが傷むんだよなー。」


アンちゃんはスーパークールだ。


 お喋りもたくさんしたけど、作業もたくさんした。僕が重いダンボールを持ち上げようと苦心惨憺するのを見てはニヤニヤしていて、もちろん手助けなんかしてくれない。悔しいのでちょっと見栄を張ってポリスチレンの現場の話をしたら、返ってきた話が半端じゃなかった。


「オレ、一袋30キロの砂糖が詰まった袋を700、一人で積み込んだことあるよ。」


「うえっ!……30キロの700って……2.1トン?」


また間違えました。


「21トンだよ。」


 それからは、僕がふらつくとニヤニヤ笑いに「いやー、砂糖袋かつがせてみたいねえ」という一言が付け加えられるようになった。僕のスーパーポジティブ思考回路はその言葉を「また一緒に働いてみたいもんだ」と翻訳する。僕は悔しがるふりをしながら、「あれ、いつの間にこういう人に嫌われなくなったんだろう」と意外の感に打たれる。暴力の気配を漂わせる人間がずっと苦手だった。向こうからも好かれたことはなかった。でも、今はうまくやれる。一体、僕のどこが変わったのだろう。
 アンちゃんが事ある毎に僕のひ弱ぶりをからかうので
「もう、そんなに言わないで下さいよ!身体これ一つしか持ってないんですから!」
と軽く怒って見せたけど、笑われてお終い。


 小説の話も少し。


「僕、小説書いたりするんですよ。」


「へえー、どんなの?」


「純文学です。」


「ずんぶんがく?」


「じゅんぶんがく、純粋な文学です。」


「あ、純文学ね……って、どういうの?」


「ちょっと哲学的な感じのする小説、かな。」


 ふーん、とアンちゃんは気のない返事をする。


「小説はほとんど読まんなあ。」


 そうですよねえ。


「あ、でもあるな。オレ昔、ちょっと留置場に入れられたことがあって、その時は何冊か読んだ……あと、事故って入院してたときも。」


 普通にやれればそれが一番、というアンちゃんの言葉が甦る。落ちるところまで落ちたけど、今はまっとうにやってる。アンちゃんはきっと、そんな風に考えているんだろう。


 でも僕は、思わず笑い出しながら大きな声で言う。


「決定だ!日本人全員監禁!そうすりゃ小説がもっと売れる世の中になりますよ!」


「はは、そりゃ確かに売れるようにはなるかもな。」


 しばらくしてから、アンちゃんがポツリと呟く。


「でもなんか小説って、頭良さそうなんだよなあ。」


「そんなことないですよ。ハーレーと一緒です。」


「ハーレーと?」


「ハーレーのかっこよさにも、人にわかってもらえる部分と、誰にもわかってもらえないけど絶対に自分はかっこいいと思う、そういう部分がありますよね?」


「そりゃあるわ。」


「小説にも同じように、わかってもらえる部分とそうでない部分とがあって、なかなかわかってもらえない方を、でもこれがかっこいいんだ、これが面白いんだって表現していくんです。あと、ハーレーで繋がってる知り合いがいますよね?」


「おるおる。」


「小説で繋がる知り合いってのもいるんです。面白い小説って、だいたい不確定な部分があって、そこを議論したりするのが面白いんですよ。」


「ふかくていなぶぶん。」


「例えば、ピストルを使って決闘する、そんな場面があったとします。ところが決闘者の一人が、自分の番が回ってきたときに相手ではなく、近くの茂みに弾丸を撃ち込んだ。さて、この男は何を思ってわざと外したんだってあーだこーだ言うわけですよ。」


「へえー。」


「ね、話すテーマが違うだけで、やってることは一緒でしょ?ハーレーと小説。」


「いや、どうだろうな。」


 あちゃー。


「お、やっと奥が見えたな。」


 気が付けば、コンテナ一杯に詰め込まれていたダンボールも残り少ない。よっ、と降ろしたダンボールの向こうに、コンテナの壁が見える。これがトンネル工事なら、鶴嘴をガチンと振り下ろした瞬間に岩盤が崩れぽっかりと穴が開いて光が射す、そういう瞬間だ。やり遂げた、という達成感がある。


 ベルトコンベアが止まるたびに軽い苛立ちを見せていたアンちゃんも、今は爽快そのものといった様子だ。最後のダンボールをローラーコンベアに流し、すぐにローラーコンベア自体とスタンドを片付け始める。


 すべてが終わって、アンちゃんもOさんから紙切れを受け取って次の現場に向かっていった。去り際に僕のほうを見てニッコリ笑ってくれる。コチラもペコリと頭を下げる。大した働きはできなかったけれど、気に入ってもらえたみたいだ。


 トレーラーの次は、駐車場の倉庫から運び出されたコンテナ。大型のフォークリフトが、作業所と床の高さを合わせたコンテナを慎重に接岸させる。Oさんがガンガンとレバーを叩きながら、コンテナの扉を開ける。


 今度のダンボールは、ずいぶん埃っぽい。作業しながらゴホンゴホンと咳き込んで初めて気が付く。Tシャツやズボンにも茶色がかった埃がべったりと付いている。いったいいつから倉庫に入っていた返本なんだろう。そんなことを考えながら作業していたら、Oさんから10分休憩の声が掛かる。


 お昼を一緒に食べた人と、自販機のコーナーに向かう。とにかく喉が渇く。カロリーの高そうな炭酸飲料を選ぶ。死ぬほどうまい。また一瞬で飲み干してしまいそうになるところを、グッと我慢する。飲み物代は肉体労働にとっての必要経費みたいなものだ。2杯3杯と好きなだけ飲めば、それだけ利益は失われる。


 カップを持ったまま、最初に指定された休憩スペースに移動する。彼は本格的に疲れてきたようだ。足取りが重い。お昼の時よりも少し元気がなくなってきている。僕だって、日雇いを始めて間もない頃にこの仕事を紹介されていたら、同じ状態になっていただろう。でも今は、そうならない。


 ポリスチレンの現場は様々な教訓を僕にくれた。自分の身体は、自分で思っているよりも動くという事。肉体的などんな疲れもどんな痛みも、適切な栄養と休養で必ず治るという事。それから、身体をコントロールするためのいくつかの技術。


 「痛い」とか「キツイ」、そういう身体からのシグナルは、無視することが出来る。代わりに笑顔を作る、大きな声でハキハキ喋る、テキパキと行動する。そうやって身体を騙す。うまく身体を騙せれば、意識も変わる。疲れた、とはあまり思わなくなる。騙しているのも「僕」なら騙されているのも「僕」なのだけど、これが案外うまくいく。身体を手放して、身体に頭を引っ張らせる。行動によって意識を変える。肉体労働の現場で、僕はそんな風にやるコツを覚えた。


 そう言えば、もう立ち仕事も辛くない。単純に体がなまっていた部分もあるのだろうけど、意識が変わったのも大きい。若い頃の苦労は買ってでもしろ、と言う。今の僕にとって「若い頃の苦労」はポリスチレンの現場だ。確かに今日の現場は、他のほとんどの現場よりもキツイ。同じ時給でこの仕事かよ、と思ってしまえば疲労感はますます募るだろう。でも僕は、「あのポリスチレンの積み込みに比べれば」と思うことが出来る。この仕事は必ずやり遂げられる、と知っている。


 そんな話は、だけど、彼にはしなかった。話し振りから、彼の頭の良さが伝わってくる。この人なら、僕がわざわざ話さなくとも、必要なことには自分で気付く。代わりに、今日の夜飲むビールはどれだけ五臓六腑に染み渡るか、なんて話をする。


「どう、この仕事、結構辛いんじゃないの?」


 隣に座っていたおっちゃんが、僕たちの会話に加わってくる。仕事中の僕は普段とは別人のように社交的になっていて、言葉尻に侮りを滲ませるような失礼な人間とも話ができる。僕と彼は口々に、いやーキツイですよー、とか、もうボロボロです、なんて言葉を調子よく返す。慣れないと厳しいよねえ、と言いながらおっちゃんは満足げにタバコの煙を吐き出す。


「オレも昔はこんな仕事してなかったんだけどさあ。」


「どんなお仕事、されてたんですか?」


「うん?ああ、自動車関連の仕事をしててね。アメリカに売り込みに行ったりしたよ。日本の製品はピカイチだからね、世界中のどこでも歓迎されるんだ。」


 あなたが開発した技術ですか?あなたが作った製品ですか?歓迎されていたのは、あなたの売った製品「だけ」じゃないんですか?そんな事を考えて、ああ、怒っちゃってるなあオレ、と呆れるような気持ちになる。


「今の中国なんてヒドイよねえ、世界中に中国製品は溢れてるけど、品質は低いし、コピーばっかりだもんねえ。」


「かつて日本も通った道とはいえ……ですよね。」


 こういう時の僕はちょっと意地悪である。


「うんまあ、そりゃそうなんだけどさあ。」


 わかっているなら、他人の事ばかり悪し様には言わないことだ。僕はあやうく、高度成長期以前の日本製品についてくどくど説明するところだった。


 短い休憩時間が終わる。もう一踏ん張りですね、と声を掛け合って彼と別れ、コンテナに戻る。


 もうドライバーさんはいない。僕はOさんと二人きりで、荷降ろしを続けた。


「こういう荷降ろしみたいな仕事、結構されてるんですか?」


 Oさんから質問される。


「いえ、そんなには。」


「そうなんですか。なんだかあまり疲れてなさそうに見えたんで、慣れてるのかなと思って。」


 自分を騙すついでに、人まで騙してしまったみたいだ。


「いやあ、表に出さないようしてるだけで、中身はヘトヘトですよ。今日も最初は『こんな重いの無理』とか思ってたんですけど、なんとか終業時間が近付いてホッとしてるぐらいで。」


 Oさんの質問には、さっきのおっちゃんと違って侮るような感じがない。同じように「疲れてます」と返事しても、全然気分が悪くならない。これまでドライバーさんとばかり話していたけど、Oさんも結構感じのいい人だったんだな。


 Oさんも僕に好感らしき感情を抱いてくれたらしく、その後は気軽に色々な話をしながら作業した。


 彼は元々日雇い派遣をしていた。それが同じ現場に繰り返し派遣されているうちに、派遣会社とそりが合わなかった事もあって、アルバイトとして直接雇用されることになった。途中の空白期間はあるけれど、なんだかんだで三年近くココで働いている。日雇いの人を指導するような立場ではあるけれど、仕事がキツイ事もあって、二度以上来る日雇いは少ない。


「あそこに、端末がありますよね。」


 Oさんは、ベルトコンベアが高速ラインに合流する辺りに立っている、タッチパネル式のディスプレイを指差す。


「あの操作ができる人を増やしたいんですよ。」


 教えていただければ覚えますよ、とは僕は言わない。Oさんも、だから覚えてくれませんか、とは言わない。その話はそれで終わりだ。


 Oさんは最近、就職を考えるようになったのだという。


「失礼ですけど、おいくつですか?」


「26です。」


 僕はニッコリと笑って言う。


「いい頃合いだと思います。」


 自分を棚上げしなければ、人に助言もできやしない。


 お喋りしながらも、僕たちは作業を続けている。コンテナの奥に進めばローラーコンベアを追加する。ベルトコンベアが止まればダンボールを近くに移動する。壊れたダンボールはガムテープで補修する。向きを間違えたダンボールがあれば、センサーのところまで行って直す。コンテナが空になれば、ローラーコンベアとスタンドを片付けて扉を閉める。新たなコンテナが来れば、また扉を開ける。Oさんは時々端末を叩く。


 そんな風に喋りながら働いていると、こちらをじっと見つめている視線に気付く。


「あれ、あのカントクさん、午前中からあんな風に立ってましたっけ?」


 高速ラインの上には、鉄筋の橋が渡されている。その上から、監督役の男がこちらをじっと見詰めている。僕がOさんに尋ねると、いや、午前中にはいませんでしたよ、とすぐに答えが返ってくる。なんだろう、気持ち悪い。


 気持ち悪いな、とは思いつつも、僕らのすることが変わるわけでもない。僕たちは返本の詰まったダンボールをベルトコンベアに流す。作業の合間にお喋りする。


 男はまたすぐにやってきた。今度は僕たちが作業しているコンテナのそばまで来て、ジロジロとこちらを眺めながら、これ見よがしにダンボールを一つ、ベルトコンベアに載せる。そしてすぐに去っていく。


「なんなんでしょうね、ありゃ。」


 Oさんが、薄笑いを浮かべながら言う。


パノプティコン。」


 僕は自分で口にした言葉にハッとする。しまった。


「ぱの……?」


 僕は半ばやけになって、説明を開始する。


パノプティコン、イギリスのベンサムという法学者が考え出した概念です。日本語では一望監視装置、と呼ばれています。監獄を作るための装置なんです。」


「いちぼうかんしそうち?」


「はい、広大な景観を一望する、の一望です。中央に監視塔の立っている、円形で内向きの牢屋を想像してみてください。その監視塔には磨りガラスが張られています。監視者がいるかもしれないし、いないかもしれない。それは囚人にはわかりません。でも、見られている可能性があって、それが問題視される可能性がある以上、囚人は自分の行動に注意しなければいけない。その監視塔のことです、パノプティコンっていうのは。」


 僕たちはお喋りしているけれど、作業のペースがそれほど落ちているわけではない。とすれば、僕たちがお喋りしていることそれ自体が何か問題を孕んでいるのか。


「はは、アイツがそこまで考えてるわけないですよ。」


 Oさんは笑う。


「街角で、歌舞伎役者みたいな顔を書いたステッカー、見たことありませんか?あれと同じです。監視をしている本人が、役割を理解している必要はないんです。」


 Oさんが黙り込む。


 ステッカー以外にも、多くの例を挙げることができる。実際にはほとんどチェックされていない監視カメラ。警官のいないことの多い交番。エジプトのピラミッドによくある、ウィジャトの眼。「お天道様が見てるよ」という言葉。どれもこれも、「見られているかもしれない」という可能性を前提にして、「見られていたら罰を受けるかもしれない」行動を自発的に抑制させるための装置だ。


 僕の頭は、「お喋りしてほしくない理由」を探すためにほとんどのリソースを投じ始める。Oさんが、社外に漏らされたくない情報を握っている。その可能性はどうだ。あるかもしれない。そこで働いている人はそれが当然だと思っているけど、実は当然ではないこと。労働基準法に違反しているけれど、慣例化していること。そんな秘密が眠っている会社なんて、いくらでもあるだろう。他にはどうだ。労働運動。あるかもしれない。その表現は大げさだけれど、簡単な話だ。アルバイトと日雇い派遣が違う時給で働いているケースはよくある。アルバイトと日雇いのどちらかが、もう一方の時給を知って「こっちにも同じだけ時給をよこせ」と要求すること。時給に差がなくとも、「作業内容に給与が見合わない」という理由で、アルバイトと日雇いが結託してストライキを起こす可能性だってゼロとは言えない。もちろんお喋りに夢中になって作業効率が落ちることもあるだろう。


 なるほど、確かにお喋りをさせないことで防ぐことのできるリスクはたくさんあるね。


 でも、気に喰わない。


 いや、こんなマイナーブログで誰かの眼を気にすることもないか。


 ムカつくんだよ、クソ野郎ども。


 僕は頭の中ではっきりと、こういう言葉を書いた。自分の言葉でますます興奮して、僕の中のケダモノみたいな成分がガルルガルルと煮えたぎった。


 でも、一人で怒り心頭に発したところで、作業は終了。それどころかOさんに


「ありがとうございました、色々と教えていただいて。」


と言われて驚いて、


「あ、いえ、僕なんかの言葉でよければいくらでも。」


なんて返答しているうちに、気持ちはずいぶん穏やかになってしまう。


 ま、そんなもんですよね。


 簡単にベルトコンベア周辺の掃き掃除をして、終礼をして、事務室に寄って名簿に終了時間を書き込み、更衣室のロッカーから荷物を取って帰る。やっぱり喉はカラカラで、正門のそばにあった自販機でもう一杯飲み物を購入。歩き飲み歩きタバコをしながら、のんびりバス亭に向かう。お昼と午後の休憩を一緒に過ごした人(結局この日は名前を訊かず)とまた一緒になって、今までにした仕事の話なんかをしながら、バス待ちの時間を過ごす。ふと訪れる沈黙の時間に、僕はパノプティコンについて考え続けている。


 バスがやってきた。


 乗り込んで、バスに揺られているうちに、考えは全部まとまった。僕は興奮を隠しきれずに彼に話し掛ける。


「今日の現場、すごいですよ!あそこ、監獄みたいに設計されてるんです!いえあの、僕がこう思ったのはあの、カントク役の眼鏡の人がいたでしょう、背の低い。あの人がね、仕事してる最中に、近付いてきたんですよ、でも何にも言わずに立ち去っていった、それで気付いたんです。あの人はパノプティコンなんだって!パノプティコンっていうのはベンサムっていう人の考えた概念で、監獄の秩序を最小の人数で守るためのシステムなんです!まさかそれが『会社』にも応用できるなんて、考えたこともなかったんですよ!でも、あそこはやってたんです!まずね、『お前らは見られているぞ』ってことを意識させるんです。そうすると誰でも『見られちゃマズイ』と思う行動は取らなくなるでしょう?で、お喋りすらしなくなるんです。ところがですね、この『お喋りさせない』ってのは、実は作業効率を下げさせないためなんかじゃないんです。犯罪者が情報交換するのを防ぐためなんですよ!あの、フーコーっていう人が、『監獄の誕生』っていう本を書いてるんです。僕はフーコーについて書かれた入門書みたいなのしか読んでないんですけど、そこに一箇所どうしても理解できないところがあったんです。それは『監獄こそが犯罪者を作り出すシステムである』っていうところで、犯罪者が入れられるのが監獄なのに、どうしてその監獄が犯罪者を作り出すなんてことが言えるのか、さっぱりわからなかったんですよ。でも、今日わかりました!軽犯罪を起こした人間が、本物の犯罪者になって出てくるのが監獄なんです!犯罪者は監獄の中で、犯罪者たちのコミュニティに組み込まれ、犯罪の種類や手法のエリート教育を受けるんです。犯罪者たちの持つ価値観に汚染されていくんです!そうして釈放されて、また犯罪を犯す、監獄に戻る。彼らはそれを求めているんですよ。だって、そうしなきゃ自分の犯した罪がどれだけすごいものか、理解してくれる人がいないんですからね!え、別に僕たちは犯罪者扱いなんてされてない、ですって?そんなわけがないでしょう!僕たちはあそこに着いてまず、何をされましたか?持ち物チェックです。あの建物の中にどっさりあった本を、ちょろまかすような人間だと思われているからあんなことをされたんですよ!それにアレはどうです?僕たちが建物に入る前に見た、並んで歩く人たちは?アレが労働者に見えましたか?どう見ても囚人ですよ!まだまだあります。あの、事務室の前の廊下。人が鈴なりになってタバコをふかしていた。あそこに一歩足を踏み入れて、僕はすぐに自分の知っている何かにものすごく似ていると感じました。『AKIRA』っていう映画ご存知ですか?そこに出てくる、留置場の光景にそっくりだったんです!あそこは留置場なんですよ!もう一ついいですか、僕、休憩時間に更衣室にスウェットを置きに行こうとしたんです。そうしたらあのメガネに止められたんですよ。ただ禁止だから、って言われましたけどね、あれは明らかに他人のロッカーを漁って金目のものを盗み出す、そういう人間を扱う態度ですよ!いいですか、一番重要なのは、僕はそんな、物を盗むような人間じゃないってことです!でも、僕はもう全部知っているんです!警戒されていることを感じて結局は、どこでどんなものを盗めるか、全部まるごと知ってしまった、ってことなんです!」