現場編 8

八日目 埼玉県某市

作業内容:返本廃棄


 前回夜勤で入るはずだった仕事を、今度は日勤で紹介された。不労所得をもらってしまった分くらいは、働いて返したい。そんな気持ちももちろんあったのだけれど、それより何より、僕は売れなかった本の末路というものを、一度見ておく必要があるような気がしていた。


 前の日の晩、派遣会社から、現地に直接向かうようメールで指示があった。何度か経験してからでなければ現地集合にはならないものだと思っていたけれど、そうでもないらしい。もしかしたら、引率役を引き受ける人がいなかっただけかもしれない。


 当日の朝。メールの内容どおり、指定の駅で降り、バスに乗り込む。目的の停留所で降りるのは、大半が若い男だ。黙々と歩き出す人々の中に、立ち止まってキョロキョロと周囲を見回したり、携帯電話を取り出していじっている人がいる。もしやと思って声を掛けると、やはり同じ派遣会社の人だ。なんだかあの人の群れに混じって歩いていれば、現場に到着しちゃいそうな気がしますけどね。一応会社に連絡してナビしてもらった方がいいのかな?そんな話をしていると、一人がすぐに会社に電話を掛ける。


「はい、ええ、バスの進行方向に向かってしばらくまっすぐ……はい、あります。」


 話しながら歩き出すその人の後を、のんきにタバコをふかしながらついていく。大型ショッピングセンターやDIYショップ、広い広い駐車場。空の下には、山や林の影も見える。畑の中の道を抜けていくと、目指す建物が見えてきた。


 門の中にはまず、トラックやトレーラーが数十台は停まれそうな駐車場がある。僕たちから見て右側の片隅には倉庫があって、開いたシャッターの向こうには、貨物列車で運ぶようなコンテナがいくつも並んでいる。真正面に見える白い建物は、その駐車場に向かって、巨大な口を並べて開けている。その口の一つに、大型トラックが後部を直結する形で駐車している。どうやらあそこで荷降ろしをするらしい。


「はい、正面玄関から。わかりました。」


 僕らは駐車場を横切って、建物に向かう。


「確か、本とかDVDとか、持って入っちゃいけないんですよね?」


「そうですね。」


「手帳は大丈夫なのかなあ。」


「どうなんでしょう。聞いてみるしかないですね。」


 その時、建物の側面に向かって列をなして歩く人々の姿が視界に入る。くすんだ色の作業着に身を包んだ男女が、トボトボとうつむき加減に歩きながら死角に消えていく。


 僕たちは正面玄関の自動ドアから建物に入った。ロビーの奥には警備員の詰め所があって、その脇の通路を少し行ったところに事務机が一つ。そのそばには年配の警備員が立っている。おはようございます!と挨拶すると、こっちへどうぞ、と手招きされる。建物の側面入り口もそこにつながっているようだ。作業者たちが、警備員の背後にある角を曲がって、再び消えていくのが見える。


「持ち物チェックをします。鞄を開けて見せてください。」


 手帳は大丈夫ですか?と聞きながら、肩掛け鞄を開けてみせる。僕たちが開けた鞄を覗き込みながら、警備員は「ええ、手帳なら問題ありません」と答える。はい、大丈夫です。ではこちらの帳面に氏名を記入してください。僕たちは事務机の上にあったノートに名前を書き込んで、消えた作業者たちの後を追う。すぐに重い扉に突き当たる。押し開けながら、建物の心臓部だ、と思う。


 細長い通路の両脇には、男女別の更衣室やトイレ、それに様々な会社の事務室の扉が並んでいる。天井が高い。そこを、ゆらゆらと幾本ものタバコの煙が昇っていく。扉と扉の間に設えられた灰皿の周りで、作業者たちが一服しているのだ。隙間を埋めるように配置されたベンチの上に、人々は目白押しになっている。僕たちは人ごみと煙を掻き分けて進み、扉の一つをノックした。中から返事らしき胴間声が聞こえた。僕たちは挨拶をしながら入室する。


「おう、よろしく。そこの名簿に名前書いて待ってて。」


 ハイ、と応えて名前を記入してから、僕らは簡素なテーブルに荷物を置き、パイプ椅子に腰を下ろした。一人はバッグからパンを取り出してパクついている。ずいぶん準備がいいね。


 残りのメンバーも続々と事務室に入ってきた。六人ほどだろうか?集まったところで社長らしきいかつい男が電話を掛けると、背の低い、眼鏡を掛けた男がやってきた。


 その男の案内に従って、更衣室に移動する。派遣が使えるロッカーは決まっていて、その中の一つに上着と、カッターと軍手を取り出した残りの荷物を置く。作業の開始時間は間近だ。案内役の男は、ではすぐに現場に向かいます、と言って更衣室のドアから出て行く。僕たちは、男の早足に歩調を合わせて急ぐ。


 通路を抜けると、そこには広大な空間が広がっていた。鉄筋組みの階段。作業台。フォークリフト。そしてそれらすべてを埋め尽くす本、本、本。単行本、雑誌、文庫、コミックス、様々な形態の出荷前の本が、至るところに積み上げられている。書籍の箱詰め、という仕事の紹介も、まるっきり嘘だったわけではないのかもしれない。ここになら、本の流通に関わる作業がいくらでもある。


 男はズンズン歩いていく。あの、外から見えていた大きな口に、僕たちは内側から近付いていく。周囲の光景は、出荷前の本の山から、ダンボールが詰め込まれたカゴ車に変わっていく。あるいは、パレットに積まれたダンボールに変わっていく。きっとこのダンボールの中に、返品された本が詰まっている。


 途中、少し立ち止まって休憩スペースとトイレの場所を指示される。休憩スペースにタバコだけ置いて、僕たちはすぐに朝礼に参加することになった。


 男を取り囲むようにして、作業者たちが立ち並ぶ。おはようございます、本日の荷量は×××××、××××は×××××、××××××は×××××××なので、×××××××は××××××××してください。慣れた口調で男は喋っているのだが、何を言っているのかはよく聞き取れない。近付いていって「すみません、もう一度仰っていただけますか?」と言えるような雰囲気でもない。僕たちの作業には直接関係のない話であることを願う。


「では、今日の組み合わせは……。」


 男は、日雇いと、アルバイト(たぶん)を一人ずつ指名していく。基本的に二人一組で働くらしい。僕はOさんという人とパートナーを組むことになった。全員の組み合わせが決まると、朝礼は終わった。では本日も無事故で終了できるように、気をつけて作業してください。よろしくお願いします!よろしくお願いします、と言ったり言わなかったりのアルバイトたちは担当ラインに移動し始める。僕はOさんの後を追って、ベルトコンベアにたどり着いた。


 Oさんから、仕事の手順をざっと教えてもらう。といっても、僕の仕事はごく単純。トラックからカゴ車を運び出し(フォークリフトが出してくれる場合もある)、本の詰まったダンボールをひたすらベルトコンベアに載せていくだけだ。注意点はただ一つ。ダンボールの向きに気を付けること。すべてのダンボールにはラベルが貼られていて、コンベアの途中にあるセンサーがそれを読み取る。おかしな向きにダンボールを置いてしまうと、そこでベルトコンベアが止まってしまうのだ。


 そんな説明を受けて、僕たちはトラックの到着を待つ。すぐにトラックがやってきて、荷降ろしが始まる。


 トラックのドライバーさん、僕、それにOさんの三人で、ひたすらベルトコンベアにダンボールを流していく。中に本が詰まっているだけあって、なかなかの重さだ。ダンボールの大きさはまちまちで、大きなものにぎっしり本が詰まっていると、かなり気合を入れなければ持ち上がらない。今日の仕事も、いい筋力トレーニングになりそうだ。


 コンビニから、キオスクから、書店から。本を売るあらゆる場所からの返本をベルトコンベアに投げる。ダンボールに詰められた本はしばらくゆっくりと進み、センサーを通過し、他のラインからのダンボールが流れる高速ラインに合流する。その先は蛇のようにうねって、最終的にどこに運ばれるのか、こちらからは見えない。廃棄された本はきっと、再生紙に生まれ変わるのだろう。断裁され、ドロドロに溶かされ、漂白剤を投入され、再び漉かれて。けれど、この建物の中でどこまでの工程が完了するのかはわからない。


 ダンボールの中には水に濡れたか、運搬途中で磨耗したかして、破れかけているものもある。事前に気付けばガムテープで補強してからベルトコンベアに載せるのだけれど、気付かず投げてしまうことがある。そんなとき、ダンボールは落下の衝撃で一気に裂ける。中に詰められていた雑誌が突然姿を現し、ひどいときはバラバラとこぼれる。


 ドキン、と心臓が高く打つ。棺桶が壊れて死体が転げ出たのを目撃したような気分だ。僕はそんな光景を見たこともないのに、そう強く確信する。


 思って初めて、自分が今「本の墓場」にいることを自覚する。


 いや、向こうには出荷前の本も積み上げられていた。ここは「産道」でもあるのだ。


 産道と墓場。生誕と終末。そして再生。この巨大なプロセスの中で、自分の文章を紙媒体に載せたいと願う僕はいったい何だろう。


 精子だ。酸の海を泳ぐ、数億の中の一つだ。


「まーた止まっちゃったねえ。」


 ドライバーさんに話し掛けられて我に返る。僕からは見えないどこかでトラブルが起こったようだ。ベルトコンベアは止まっている。ベルトの上に隙間なくダンボールを置いてしまうと、それ以上できることはなくなってしまう。


「結構止まっちゃうもんですね。」


 返答しながら、僕は少しホッとしている。作業を始めてから、ずっと汗をかき通しなのだ。重ね着していた服を脱いで、今はTシャツ一枚になっているけれど、それでも暑い。ところが若いOさんはともかく、それなりの歳に見えるドライバーさんもケロリとしている。


「おにーさんは学生さんなのかな?」


 一体何歳なんだこの人は、と思っていたら、先に質問されてしまった。


「いえ、こーみえても、結構いってます。三十です。」


 而立、とは言い難いガキですけども。


「ドライバーさんはおいくつなんですか?」


「さーて、いくつでしょう?」


 年齢を訊いてこう答えられると大抵イラッとするのだけど、不思議とこの人には嫌な感じを持たない。うーん、と言いながら本気で考える。最近、やけに人の歳を当てるのがうまくなった。


「五十代……前半。」


「ブッブー。昭和22年生まれの61歳でーす。」


 ええええーっ?!と驚きながら、そのあまりにも軽い口調に笑ってしまう。


「お若いですねー、いや、なんだか、こう言うのも憚られるくらいお若く見えます。ってゆーか、僕よりもずっと腕力もスタミナもあるみたいですし……。」


 と言いながら、僕はドライバーさんの腕の近くに自分の腕を差し出す。


「ほら、腕なんて僕のより二周りは太いし。」


 ドライバーさんはアハハハハと笑う。爽やかで、でも優越感に満ちた感じもなく、気持ちのいい笑い方。あ、僕、この人、好きだな。


「いったい何年やればこんなに腕が太くなるんですかー?」


「えー、そんなにやってないよー。この仕事始めたの四十代の後半からだし。」


 げ。


「え、え、それ以前から身体を動かすお仕事をされてたんですか?」


「ううん、その前はデスクワーク。」


 またびっくり。


「そうなんですか!えーっ、不安はありませんでした?その歳で力仕事に転職するのって。」


「いやまあ、なんとかなるかなーって。」


 僕はみたび噴き出す。とにかく軽いのだ。この人の経歴なら、「バブル崩壊の余波でさ」なんて深刻な顔をしてもおかしくない。「オレはこの腕一本で生きてきた」と孤高を気取ることだってできるだろう。でも、それをしない。軽く、軽く、世間の荒波をいくど被っても浮かび上がり、大したことじゃないさ、なんとかなるさ、と笑い飛ばしてきたんだな、この人は。見習わなくちゃいけない。


 大したジジイだ、まったく!


 ベルトコンベアが動き出して、僕たちはまた荷降ろしに戻る。作業しながら、ポツリポツリとお喋りする。


「こっちもさっさと引退したいんだけどさ、何しろ年金があの体たらくでしょ?まーだしばらくは働かなくちゃねー。」


「楽はさせてもらえないですよね、あれじゃ。」


「結婚して、子供を一人立ちさせて、働いて、働いて、働いて。」


 ドライバーさんはダンボールを一つ投げるごとに働いて、と呟く。


「六十年も生きてきたけど、なーんもいいことなかったよ。」


 悲壮感の欠片もない口調で、ドライバーさんは言う。僕はドライバーさんの顔を見る。笑っている。僕も笑う。


「もし……もし宝くじでも当たって、もう一生働かなくてもいいし、時間もたーっぷりある、金もたーっぷりある、ってことになったら、何したいですか?」


 そうだね……と少し考えてから。


「世界中を見て回りたいな。あとね……麻雀したい、ずっと。」


 麻雀、と言われたところで僕は爆笑する。そうですよね、麻雀って、やってもやってもやり足りないんですよね。


 二時間ほど働いたところで、十分間の休憩になった。タバコを吸おうと、休憩スペースに向かう。


 と、その前に。


 脱いだスウェットが邪魔だし、更衣室に置いてきちゃおう。そう思って更衣室に向かって歩いていると、プァンプァン!プァンプァン!という音が聞こえる。


「ちょっとちょっと!どこ行くの!?」


 振り向くと、あの監督役の男がフォークリフトに乗ってこっちに向かってくる。あ、フォークリフトのクラクションだったのか。


「これ邪魔になったんで、更衣室に置きに行くところなんです!」


 僕はスウェットを高く掲げながら、大声で怒鳴る。建物の中は常にどこからともなく響く轟音に満ちていて、そうしなければ声が通らない。


「ダメだよ、昼休み以外は更衣室は出入り禁止なんだから!休憩スペースに荷物置き場があるから、そこに置いといて!」


 わかりました!と答えると、フォークリフトくるりと回転して、作業場に戻っていく。


 なるほど、そういう扱いなわけね、僕らは。


 すでに喉はカラカラになっていて、自販機でカップの安い飲み物を買ってから休憩スペースに行く。一瞬で飲み干す。すぐにタバコに火をつける。煙と一緒に、胸に溜まった黒い感情を吐き出す。


 最初の休憩が終わった。


 引き続き、ドライバーさんとお喋りしながらののんきな作業が続く。肉体的にどんなにキツくても、この人となら大丈夫。


「大企業に入って一軒家を建てても、離婚して、家も手放して、生活保護を受けて、ビルに放火するようなヤツもいるんだからね。わからないもんだよ、色々と。」


「あ、大阪の。」


 個室ビデオ店の放火事件だ。自殺しようとした男は怖くなって逃げ出し、泊まっていた客が15人も死んだ。場所が場所だけに、死者も遺族も浮かばれないような、あのやりきれない事件。(実のところ、僕は二ヶ月経って調べなおすまで、現場はインターネットカフェだとばかり思い込んでいた。どういうところだか知って、その勘違いの理由がよくわかった。)


 口調は相変わらず軽いのだけど、内容は重い。けれどその重い話を聞いて、僕の気持ちは少しずつ軽くなる。


 この人、僕のこと、励ましてくれてる。


 まだ先はわからないよ、と言ってくれてる。


 自暴自棄になるなよ、と戒めてくれてる。


 そんなことを感じて、ポカポカした気持ちでダンボールを投げたり、持ち上げたり、ガムテープで補修したり、カゴ車を片付けたりしていたら、その人のトラックは空になった。


「じゃーね。」


 ドライバーさんはOさんから伝票みたいな紙片を受け取って、次の現場に向かっていった。


 ありがとうございます、こんな、どこの馬の骨とも知れないような若造に。そんな気持ちで見送った。


 今度は、でかいトレーラーがやってきた。



 つづく。