「倍音」の授業(さらに続き)

「茂木さんが書いていたのは、子どもの頃の思い出話だった。昆虫少年だった茂木さんの家の近所には、二つの森があったんだって。一つは、『ミヤマセセリ』……って言ったかな。そういう名前のチョウチョがたくさんいる森。」
私はホワイトボードに「ミヤマセセリ」と書き付ける。
「もう一つの森は、『かっぱの森』と呼ばれていた。かっぱの森にはクワガタがたくさんいて、木を蹴るとバラバラとクワガタが降ってくる。そんな森だった。」
「ミヤマセセリ」の下に「の森」と、その隣に「かっぱの森」と書き足す。
「子どもの頃の茂木さんは、その日の気分次第でどちらかの森に出かけていた。その、別々の森にね。ところが、ある日のこと。ミヤマセセリの森でいつものように蝶を追いかけていた茂木さんは、蝶を深追いしすぎて、それまで踏み込んだことのなかった森の奥に入ってしまう。気づけば、まったく見覚えのない、帰り道もわからないような場所に茂木さんはいた。もう、蝶どころじゃない。夕方の日は暮れかかっていて、もうすぐ足元も見えなくなる。森の中では張り出した木の根っこや、ごちゃごちゃした草花が、すきあらば茂木少年の足を絡め取ろうとしている。暗闇の中を歩くと、転んで怪我をするかもしれない。このままだと、家に帰れなくなる。茂木さんは焦った。日のあるうちに森を脱出するために、ただひたすら歩いた。どこか、とにかく現在位置がわかる場所を目指して。」
子どもたちは、徐々に薄暗くなっていく森の中を歩き回る茂木少年のような、危機感に溢れた表情を浮かべ始めている。
「歩いて歩いて、茂木さんは自分が見覚えのある大木のそばを歩いていることに気づいた。『この木、知ってる』。茂木さんはようやく自分が、見慣れた森の中にたどり着いたことを知った。そして、とても驚いた。そこが『かっぱの森』だったから。茂木さんのその日の遊び場は、ミヤマセセリの森だった。そこで迷った。歩き回った。そしたら、かっぱの森にいた。茂木さんは知らなかった。ミヤマセセリの森とかっぱの森は、別々の森だとばかり思い込んでいたから。でも、そうじゃなかった。茂木さんは、その時不思議な感動に打たれた。ミヤマセセリの森とかっぱの森は繋がっている!そうして、一見まったく関係のないようなものが、その奥では繋がっていることに気づいたときの感動を、茂木少年は四十代も後半になっても忘れることはなかった。そんな内容の、エントリでした。」
私は一息ついた。
子どもたちもふぅ、と息を吐き出した。
「科学者にぴったりのエピソードだよね。『つながり』を感知する、っていうのは知的な悦びの原点だし。好奇心が旺盛で、どこまでも物事を突き詰めていくような、そんな行動力を感じさせるから。」
けれど私は、そのエントリの内容を茂木さんの「創作」だと感じたのだった。
河童。
森(私のハンドルネームは、ずっと「もりのひと」だった。)。
ミヤマセセリ(それまで聞いたことのなかった、おそらくは希少種の蝶)。
そして何より、エイプリル・フールの日に茂木さんが書く文章に似た、幻想的な手触り。
「でも、僕はこの日のエントリを、『僕宛ての手紙』だと解釈したんです。いくつか理由はあるんだけど、最大の理由になったのが、『かっぱの森』の、『河童』という言葉でした。はい、じゃあここで問題だ。国語の時間に『河童』という言葉を聞いたら、思い出さなきゃいけないことがあるよね。さあて、なんだろう?」
私は「かっぱ」だけを赤丸で囲いながら、子どもたちを振り返った。
「すもう!」
「さら!」
「きゅうり!」
様々な声が上がる。
「オッケーオッケー。確かにどれも河童に相応しい言葉だ。河童は相撲が強いし、頭には皿が載ってる。きゅうりは大好物だよね。でも、国語の時間に『かっぱ』と聞いて思い出さなきゃいけないことは、たった一つだよ。」