「倍音」の授業(続き)

というかね……。この世の中にはさ、はっきりとは言えないことっていうのがあるんだよ。立場もある、時代の空気とか、良識なんてものもある。書いているひとがすごく優しくて、『こんなこと言われたら、きっと傷つくよな』って気を使ってしまうこともあるだろうし、危険な時代で『はっきり書いたら殺されてしまうかもしれない』、そんな危機感を抱いていることもあるかもしれない。でも、書く人は、伝えたいんです。言いたいことがあって書いているんです。その人が研究によって、経験によって、思索によって掴み取った『真実』を、どうしても誰かに言わなければ気がすまない、そういうときがあるんです。ただ言いたいだけじゃない。本当に理解してくれる、心底共感してくれる、そういう人を見つけたい、そのためにはどこかで公開しなければいけない、そんな気持ちが湧き上がって止まらなくなることがあるんです。書きたい、でも書けない。そういう苦しみをなんとか解決するために、人は表現する技術を磨きます。『文学的倍音』というのは、そんな表現技術の一つです。誰が読んでも共通して読み取ることのできる意味が、表面にあります。けれど本当に伝えたい相手に宛てて書く、ひそかな意味が忍ばせてあります。そのひそかな意味こそが、文章における『倍音』なんです。」
話しているうちに熱くなり、言葉遣いまで変えてしまった私を、生徒たちは不思議そうな顔をして見ている。
「ひとつね、すごくいい例があるんだ。これは僕が実際に体験したことなんだけど……いや、体験したと言っていいのかわからない。8割は妄想です。でも、2割は真実です。それが事実かどうかはわからない。でも、僕は信じていることがあります。あの……茂木健一郎さんって知ってる?テレビなんかによく出てるんだけど。」
生徒たちの間から、「あ、ベストハウスのひと!」とか「もじゃもじゃ!」「世界一受けたい授業!」なんて声が上がる。
「茂木さんはさ、インターネットでブログを書いてるんだよ。すっごく忙しい人なんだけど、毎朝文章を書くの。僕はすげえなあと思いながら、毎日読んでるんだけどさ。その茂木さんがね、一度、僕一人のために文章を書いてくれたことがあるんだよ。」
「えー。」「ありえねーよ。」
子どもは容赦ない。
「まあまあ、聞いてよ。茂木さんがさ、ある日、もんのすごく感動的な話を書いてたのね。いや、そんなに大げさな話じゃないんだけどさ。茂木さんて東工大の大学院でも教えてるの。そこの学生さんと一緒に電車で帰ってるときにさ、勉強の話とか、芸術の話とかでものすごく盛り上がって、ホントなら降りなきゃいけない駅も過ぎて、ひたすら夢中で話して、それでもどうしても別れなきゃいけなくなって、学生さんはある駅で降りた、そのあと、茂木さんの携帯にメールが入った、そこには『今さっきまでの、夢中で話した時間こそが、何かのすべてであるような、そんな気がします』と書かれていた。そんな内容のエントリだったの。すごく感動しちゃってね。それで、コメントを書き込んだんだよ。まあ、これからもご指導ご鞭撻のほど、よろしくお願い申し上げます、とかって。そしたら、次の日のブログを読んで、僕は本当に驚く羽目になったんだ。」