叱られてきました

研修に行けなかったことを考えているうちにモヤモヤしてくる。
研修というのは「給与を頂きながら勉強させて頂ける非常にありがたい制度」である。
企業がコストを投じることによって授業品質を上げ、最終的には顧客であるところの生徒たちの顧客満足=成績の向上につなげようとしている。
私自身、授業を持つようになってから半年が経ち、なんとか授業は回せるようになったものの「これでよいのか」という不安を拭い去ることはいまだできずにいる。
このような状態で受ける研修は非常に有意義なものとなったはずである。
だが、私は研修に行かなかった。
その責めが「研修時間分の給与を削られる」ことに留まってよいものか。
よいわけがない。
不利益を被るのは生徒なのだから。
私は、研修を受けないことによって「より正確で」「より生徒の記憶に留まる」教授法の獲得を逸した(はずである)。
反省するほかない。
ということで、ここはガツンと上司に叱られるべきであると判断する。
出社の挨拶とともに研修に出席しなかったことを自己申告。
理由を尋ねられて「土曜の夜の酒が過ぎました」と正直に告白。


あ、いま「バカじゃねーのかコイツ」と思われましたね?


ええ、バカなんです。


私が上司の立場にあれば、「叱らずに済むような事情」を話して欲しい、と願う。
そうすれば叱らずにいられるから。
声を荒げ、しかめ面をして見せ、反省を促すことなんてしたくない。
できることなら機嫌よく過ごしたいのは人の常である。
にもかかわらず、私のような「叱られたがり」がたまにいる。
余計な手間をかけさせる男である。
上司には申し訳ないことをした。
しかし私は「まことに申し訳ありませんでした!」と謝罪すべきことを謝罪するとスカッとしてしまうのである。
どこに行くあてのない罪悪感、というようなものを抱き続けなくて済むからだ。
私のような人間の「管理」というのは、面倒以外の何物でもなかろうと思う。


今度の失敗は、私が「自分の弱さ」を勘定に入れ忘れたことに起因している。
高校生時代の私は、もう少し賢明だったような気がする。
私は小説家以外の未来を思い描いたことがなかった。
そういう高校生だった。
小説家になるために学歴は必要ない。
それぐらいは理解していた。
そんな私が大学進学のためにコリコリ受験勉強をしたのには、二つ理由があった。
一つは、小説家になれなかった場合の「保険をかけるため」である。
そしてもう一つは「学歴程度のもので見下され続ける将来」を想像したからである。
学歴で人間を測るような人間はバカである。
私はずっとそう言われて育ってきた。
だが、私はバカにバカにされることを心の底から嫌っている。
バカにバカにされ続けるくらいなら、学歴くらいはまともなものを身につけよう。
そんな思いは、私の勉強のモチベーションであり続けた。
「学歴社会」は私が物心付く頃からずっと非難の対象だった。
けれど日本はいまだに学歴社会である。
学歴によって就職機会と昇進機会が制限されるような社会である。
学問が人間を真に自由な存在たらしめることを知るものは少ない。
学問の魅力に気付くことなく、それでも勉強し続けられる人間というのは、おそらく徹底的な「リアリスト」なのだと思う。
そう、最近気付いたんですよね。
学問と芸術は、ともに「人間を自由にする」という点で一致するということに。