会場で

パーティーの開始時刻は7:30。
表参道駅に到着した私の時計は7:46を指していた。
かつかつと靴底を鳴らして、目的のビル方面の出口を目指す。
走り出しはしない。
焦るそぶりも見せない。
私は紳士だからだ。
地下から上がって交差点を見回すと、街はグーグルのストリートビューで確認した映像とは一味違う、夜の顔を見せている。
目印にしようと決めていた看板は見つからない。
あいまいな記憶を頼りにそれでも踏み出す。
しばらく歩いても、それらしきビルは見えない。
街並みは寂しくなっていく傾向にあるようだ。
迷ってうろうろするよりは、電話を一本入れたほうが良いだろう。
彼女の携帯を鳴らす。
「今いるところから、何が見える?」
「Agate……D'urbanの赤いネオンサイン……。」
「アガテとかダーバンとか言ってる。わかる?」
妻は隣にいる誰かに相談している。
替わるよ、という声とともに、聞き慣れた声の持ち主が電話に出る。
「もしもーし。」
小学校以来の幼馴染だ。
少し話したけれど埒が明かない。
「じゃ、しゃーない。降りて迎えに行くから、駅に戻ってB4出口まで行ってくれ。」
「りょーかい。悪いけど頼むよ。」
私は交差点まで歩いて再び駅の地下に潜り込み、B4出口を目指してさまよう。
何度か道を間違えて、心配した幼馴染からの着信がある。
しかし私は焦らない。
私は紳士だからだ。
ようやく友人と落ち合って、B4出口から地上に出ると、ついさっき電話を掛けた場所のそばに出る。
そこから十歩ほど歩いたところで、右手に目的の「Ao」というビルを発見する。
「うわーん。立ち止まって電話掛けるのが五秒早かったよー。」


ずいぶん情けない紳士もいたものである。


ともあれ、八時を過ぎてようやく会場に到着。
来てくれた人たちに挨拶しながら、シャンパンを求めて再度さまよう。
綺麗なフロアに、ウェイターがなかなか見つからない。
そこに、パーティーらしい華やかなドレスを着た見知らぬ女性が三人登場。
主催の女性と賑やかに挨拶を交わしていると、どこからともなくブラックのウェイターが現れて、背の高いシャンパングラスに麗々しく金色の液体を注ぎいれる。
なるほど、この店がゴージャスなのは場所と内装だけなのね。
「すいませーん、僕にもシャンパンくださーい。」


「じゃ、そろそろ主役から一言挨拶を。」
声が掛かって、集まった人たちが緩やかな輪を作る。
親しみのこもった、穏やかな眼差しの束。
小津映画にあった結婚式の場面と、佐分利信の顔が浮かぶ。
ここに相応しいのは、美しい定型だろう。
えー、ゴホン。
それでは。
「本日は、私たち二人のために、このような盛大なパーティーを開催していただき、誠にありがとうございます。」
完全にセリフだ、という呟きと笑いが聴衆からもれる。
「いまだ若輩者ではありますが、この度、真美さんと結婚し、家庭を持つこととなりました。この人となら、きっと幸福な家庭が築けると思います。つきましては、皆様のますますのご指導、ご鞭撻を、よろしくお願い致します。」
セリフ口調で言い切ると、笑いと拍手が起きる。
ささやきの中から、「ソクラテスの話とかないのー?」という声を聞き取って、
ソクラテス?あ、いーすね。じゃもちょっといきましょう。」
と話し始めようとすると、
「いやいや、そーゆうのは個別でお願いします。」
と妻になる女性がカット。
え、もう思いついたよー。
話させてよー。
「それじゃ改めて、健夫君、真美さん、本日はおめでとうございまーす。かんぱーい。」
……かんぱーい。


ということで、行き場を失った話をここに書き留めておく。


ソクラテスと言えば、様々な逸話が残されています。悪妻クサンチッペの話。讒訴されての死刑宣告に『悪法も法なり』と言って毒盃をあおった話。あるいはプラトンとの師弟関係。けれど皆さんがソクラテスと聞いて真っ先に思い出すのは、彼の"Know yourself"、『汝自身を知れ』という言葉だと思います。
けれど私たちは、己の目をもって自らを眺めることはできません。鏡に映して眺めることができるのは、光学的な私だけです。
人は、己の魂を映す他者という鏡を持たねばならないのです。
彼女は、私を映すものたちの中でも、最良の鏡です。
私は文学狂を自称し、作家を志しながら、ずっと作品を書き上げることができていません。
それでも、彼女は私を『作家』だと認めてくれます。
私に、『もっと書いて』と言ってくれます。
『書いて売れないのは構わないよ』と言ってくれます。
私がいつか書くことを、いつまでもいつまでも信じていてくれます。
私は彼女のような賢明な女性が、『あなたはいつか必ず作家になる人だから』と言ってくれることで、自分自身を信じることができます。
彼女の映し出す未来の私を追いかけることで、きっと私は作家になるでしょう。
私は彼女に出会えた幸運を感謝します。
彼女に愛されていることを誇りに思います。
私は運の強い男です。
師匠に恵まれ、先輩に恵まれ、同士に恵まれ、友人に恵まれ、そして今、妻に恵まれました。
これこそが、人生の名に値する人生であると信じます。
願わくば、私が与えられたあまりにも多くのものを、少しでもお返しできるような、そんな文章を書けますように。
おいで下さった皆様に、恥じることのない文章を書けますように。
祈るばかりでなく行動の灯を胸に点して、これからの新たな生活を、彼女とともに歩んでいきたいと思います。
話が長くなりました。
ご静聴、ありがとうございました。
どうぞ楽しんでいって下さい。
パーティーは始まったばかりです。」


この話はしなくて正解だったかもしれない。
絶対途中で泣いてたと思うから。