私家版・ユダヤ文化論/内田樹

この文章は批評ではない。
師の著作を批評できるものは弟子ではない。
私はこの「作品」からあまりにも多くを学んだ。
あまりにも多くを学んだがゆえに、言語化するのにひどく時間がかかった。
言語化が完了したわけではない。
言語化が完了することもない。
師弟関係とはそのようなものであることもまた、私は師から学んだ。
私が書くことができるのは、本当にわずかなことだけだ。
これが師の著作のすべてだと思われては困る。
心底、困る。
そのようなつもりで読んでいただければと思う。


第一に学んだのは、私が本質的に宗教的な人間であることだ。
宗教的である、とはいかなることか。
それは上位審級による「認定」や「承認」を求める心性を持つことである。
それは単一の「創造者」や「操作者」を事物の根源に求める心性を持つことである。
そのような人間にはいくつかの特徴がある。
一つは、「学ぶ力」に秀でていることである。
「学び」を駆動するのは、「教えを垂れるもの」に対しての信仰心である。
「信仰心」や「宗教的」といった単語に、違和感を持たれる方が大勢いるかもしれない。
だが、もしも持ったのならば、その違和感をよく見つめてみて欲しい。
己の内側を見つめる習慣を持ったあなたならば、すぐに気付くはずだ。
あなたは「信仰」や「宗教」といったものを忌避する傾向を持った人間を信仰している。
本当に、本当に、本当にただそれだけだ。
そんなことはない、というあなたは、世界の無根拠について思いを馳せたことがないのかもしれない。
あるいは、内面を見つめたつもりになっているだけかもしれない。
どちらにしろ、剥き出しの、グロテスクで、残酷な「真理」に触れたことのない人間にとって、内田樹は「東大卒」の「大学教授」で「売れっ子」の「文筆家」に過ぎないだろう。
そういう方にはそういう方なりの内田樹理解があってよろしい。
それなりに「効く」こともあるだろうから。
だが、私の文章にはどうやらご縁がないようだ。
すぐに右上にある「ホーム」のボタンでも押していただければと思う。


さて、それでは続けよう。
現代を生きる宗教的な人間は、かならず壁にぶつかる。
そこには「神は死んだ」と書かれている。
落書きのように、独り言のように、その言葉は書き付けられている。
だが、あなたは必ずその言葉を見つける。
そして、目を離すことができなくなる。
身動きすることができなくなる。
じっとうずくまって、自分を見つめ、世界を見つめ、けれど動けず、じわりじわり拡がってゆく黒いわだかまりと、溶け合う境界と、ぼやけた世界を漂う。
これを「自由の刑に処されている」状態と呼ぶ。
初めてそう呼んだのは、サルトルというフランスの思想家だ。
私は一冊もその著作を読んだことがないけれど、もし興味を持ったのなら読んでみるのも悪くはないだろう。
その状態のまま、死に至るものもいる。
それは彼の「選択」だ。
私は人の「自らを損ねる権利」を信じるから、別にとやかく言うつもりはない。
だが、その段階を生き延びたものは困り果てる。
自由の刑に処され、自死することもできず、快楽に淫すれば自責の念に駆られ、善行に励めば偽善が報い、新たな信仰の萌芽を破壊し続ける。
そうしてやはり困り続け、どこにも至ることはない。
彼はあらゆる価値を信じることができないまま、どこかに価値が存することを求め続ける。
やがて、どこにも価値はないと結論する。
ここに「分岐点」が出現する。
新たな価値幻想の創出か、「真理」を生きるか。
弱きものたちは必ず幻想の道を選ぶ。
もちろん私もその一人だ。
私には、ある「名」が与えられている。
「作家」というのがその名である。


ここで話は飛躍する。



私は職業上の「作家」を、単一の存在だと思い込んでいた。
いや、この表現は正確ではない。
作家とは一人の、新たな物語の創出に成功した唯一無二の存在だと「思いたがっていた」。
だがそれは私の願望に過ぎなかった。
作家もまた、種々の幻想に支えられた虚像である。
それはいわば「結晶」のようなものだ。
彼の読んだ物語がある。
彼の生きた歴史がある。
彼を取り巻く共同体がある。
彼はその「結果」である。
彼が作家になったことに必然性はない。
隣の空間を占めていた別の彼が作家になってもよかっただろう。
私がその事実を認めることができなかったのは、私が「個別性」や「唯一性」に固着していたからだ。
私は独自であろうとした。
起源になろうとした。
それが宗教的であるということだ。
単一の「創造者」になろうとしたのだから。


これが、愚鈍な私が師から学んだ第一のことである。
第二は、「愛」に関するいくつかのことだ。
私は「わたし」を愛し過ぎていたことを知った。
私は「世界」を愛し過ぎていたことを知った。
憎むほど愛するのは身体に悪いよ、と言って師匠は笑う。


「でも、先生。」


私はまだあまりうまく師弟関係を理解できていないので、口答えをしてしまったりもする。


「肯定するのは折り返してからでもいいと思うんです。いや、事実、先生だって、本当に肯定する気持ちになれたのは、そのぐらいからじゃないんですか?」


とまあ、こんなところで私の話は終わりにしよう。
師の著作にはもちろん、この程度の認識には収まらないほどの知恵の言葉が詰まっていたのだし。